モノの飽食が引き起こしたこと ~芸術からミニマリズムまで~
おしながき
文化・芸術と資本主義の関係
芸術はいつ反体制と結びついたのか?
文化が商業領域に飲み込まれる
ミニマリズムの流れはどこから来たのか?
何がミニマリズムブームを引き起こしたのか?
なぜミニマリストは積極的に自らのミニマルな生活を発信する?
予告(ノームコア、人間関係の商品化)
文化・芸術と資本主義の関係
最近読んでいる本、『エイジ・オブ・アクセス』に、文化・芸術と資本主義の関係について興味深い記述があった。
この本では、資本主義の主体がモノからコト(サービス)に、工業化資本主義から文化資本主義、財産所有からサービスへのアクセス権に移り変わっていると述べ、その背景について考察をしている。
ダニエル・ベルは現代文明を「経済」「政治」「文化」の三つの異なる領域に分け、それが相互に影響し合うと考えた。
それぞれの基本原則
経済:資源を経済的に利用すること
政治:参加すること
文化:自己の充実と向上
過去100年間、政治・文化領域の価値は商品化の一途をたどり、経済領域に吸収されてしまった。(中略)だが1900年代前半まで、消費には否定的な意味合いしかなかったことを思い起こさなければならない。
「文化」はしばらくのあいだ物質重視の価値観が強くなることに危機感を唱えていた批評家たちの避難所になった。最初ロマン派が、次に自由奔放なボヘミアンが加わって、自然の中や自己の充足を求め、非物質的主義路線で進歩を達成しようと試みた。「人はパンのみに生くるにあらず」が彼らの信条だった。
芸術はいつから反体制と結びついたのか?
フジロックの一連の騒動においては、知識人らは「芸術なんてそもそもが反体制なんだよ」と主張していたが、そのそもそもとは一体いつからなのだろうか?
フジロック騒動から、音楽と政治を社会学的に考えてみた - とある女子大生の迷走日記
芸術が反体制的な価値観と結びつけて見られるようになったのは、18世紀から19世紀のロマン派の時代だ。当時の芸術家は、啓蒙主義哲学と工業化市場の重圧により抑圧されていた感情や願望を表現した。効率・用途・客観性・無関心を原則に組織化し、物質的な価値と財産の蓄積にとらわれた世界の中で、芸術家たちは人間関係のもう一つの側面、工業化社会に生きる制約を押し破って出ようとする内面を伝達した。
産業革命が起こり、農民は工場労働者になり、機械の前で効率化された働き方を求められた。大量生産の規格品をただただマニュアル通りに作ればいい。そんな中、「人間ってこんなだっけ?もっと人間らしくのびのび生きたい」というのがロマン派の運動だ。
自由奔放と悦楽の表現を通し、 人々を作業台や機会に無理やりつなげた退屈なピューリタン的生き様からの解放を表現した。
しかし、近代的な無機質な資本主義に異を唱えた反体制の芸術は、皮肉なことに逆に資本主義にうまく取り込まれてしまう。
運命のいたずらと言うのだろうか、彼らの感性は当時支配的だった資本主義体制の糾弾を目指したにもかかわらず、生産から消費へと様態を変える苦しみの真っ只中にある経済にとって理想的な刺激となった。
生産から消費へと様態を変える苦しみの真っ只中にある経済とはどういうことなのか。産業革命の中、機械化による大量生産が実現し、モノの充足は急速に進んだ。似たり寄ったりの規格品では、もはや消費のレベルが上がった人々の心をつかむことはできなくなったのだ。そこで、新しい資本主義へと移行する必要があった。
旧来の生産思考の資本主義が創造性や自己充足、快楽、遊びなどの欲求を抑圧したとすれば、新しい消費者志向の資本主義は、芸術を利用して巨大な消費者文化を創ることで、鬱積した心理的欲求を解放しようとする。消費者志向の新たな市場は「文化領域」、つまり芸術コミュニティの共有価値の主要な伝達手段だった領域から芸術を取り出して市場へと移し、芸術は広告会社とマーケティングコンサルタントの人質となって「生き様」を売るのに使われることとなった。
文化が商業領域に飲み込まれる
ダンスや演劇、儀式、音楽、美術などの芸術は古代から人間経験のエネルギッシュな側面として不可欠なものだった。近代になり、そういった文化は上のような背景で商業世界へと取り込まれることになるのだ。
もちろん、中世においても文化や芸術は親しまれた。しかし、それらはもっぱら貴族や大商人など特権階級のためのものであった。財力あるものは、芸術家たちのパトロンとなった。彼らは、商売道具としてではなく自ら楽しんだりステータスを示したりするのに芸術にお金をかけていた。
近代になり、メディアの幅は大きく広がった。映画やラジオ、雑誌が大衆にも親しまれるようになる。産業革命により、中産階級も徐々に増える。労働者たちは、娯楽を求めた。大衆に効率よく娯楽を提供するエージェンシー(映画配給会社、テレビ・ラジオ局)が出てくることになる。
1930年代にドイツの社会学者テオドール・アドルノとマックス・ホークハイマーが「文化産業」と名付けたもの、これが今世界経済で最も急速に発展を遂げている分野だ。映画・ラジオ・テレビ・レコード業界・世界旅行・ショッピングモール・テーマパーク・ファッション・サイバー空間の疑似世界・・・(以下略)
(『エイジ・オブ・アクセス』からの引用は以上)
ミニマリズムの流れはどこから来たのか?
最近ミニマリズムや断捨離が世間を賑わせているが、モノの飽食は今に始まったことではなかったのだ。
断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、
- 断:入ってくるいらない物を断つ。
- 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
- 離:物への執着から離れる。
として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。ヨーガの行法が元になっている為、単なる片付けとは一線を引く。
↓一昨年から昨年は、本屋に行くといつも平積みにされていたような気がする
フランス人は10着しか服を持たない~パリで学んだ“暮らしの質"を高める秘訣~
- 作者: ジェニファー・L・スコット,神崎朗子
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2014/10/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (24件) を見る
なんで震災をきっかけに所有を見直すのか気になる。 「拒物症」という表現は面白い。病的なまでにモノを持ちたくない、そのような生活状況をSNSなどで積極的に上げる心理とはなんなのか。 / “「日本人はミニマリスト」こんまりブームでイ…” https://t.co/aEaGVIuzD4
— ぱんの (@lunleee) 2016年6月21日
なにがミニマリズムブームを引き起こしたのか?
考えられる要因を挙げていく。
(1) リーマンショック・不景気・震災
ミニマリストの定義と歴史を、冷静に調べてみた - 一橋を出てニートになりました
この記事によれば、2009年にアメリカのミニマリストのユニット、The Minimalistsを発端に海外で広がりを見せ始め、日本では2011年10月からじわじわと浸透し、2013年に一気に広まったということである。東日本大震災がミニマリズムのきっかけになったのかははっきりとはわからないが、時期的には浸透し始めたのと近い。震災のショック(何が本当に意味があることなのか?という問い)や、震災後の景気の落ち込みが影響しているのかもしれない。
The Minimalistsは、2008年のリーマンショックをきっかけにたくさん稼いでたくさん消費する生活を見直したというふうに語っている。他の有名な海外のミニマリストも、リーマンショックがきっかけとなった人はいるようだ。
" 不景気 → べ、別にモノなんかほしくないもんね!わたしはミニマリストなんだから!" というような構図があると思われる。欲しいのに手に入れられない、と思うよりも欲しくないからいらない、と思うほうが幸せである。
不景気の煽りを受けてもともとお金のない若者が、モノを持てない潜在的な不満感をミニマリストという思想によって代替するのも無理は無い気がする。
身も蓋もない書き方をすれば【欲しいものが買えない→モノを持たない身軽な生活】とすり替えているにすぎない。
貧乏が故に欲しいものが買えない苦しさを、ミニマリストという言葉で慰めているように見える。
ミニマリストっていうのは簡素清貧ってことでいいかな? - ネットの海の渚にて
(2)スマホの登場・普及
スティーブ・ジョブズがミニマリストであったことは、象徴的だ。
スマホ一つで、今やありとあらゆることができる。仕事も娯楽も可能だ。多くの人がいつでもどこでもネット接続されているデバイスを携帯するといいうのは、大きな転換点になったのではないかと思う。
今や高級品や車、住宅、ファッションなどで自らをブランディングしなくても、SNSでの発信によって自らの考え方を、それに伴う反応(いいね!、リプライ/コメント、フォロワー数、読者数など)によって自分に向けられた社会的な信頼を直接示すことができるようになった。まどろっこしい方法で自己を演出する必要がなくなったのだ。
(3)昨今の禅や仏教思想ブーム
フランスのミニマリストであるドミニック・ローホーは禅庭との出会いがきっかけとなったらしい。
ドミニック・ローホーさんは、30年間、日本の仏教大学で教鞭をとりながら、ヨガを学んだり、禅寺にこもって曹洞禅を学んだり、墨絵は10年学んだそうです。レオ・バボータさんと同様、禅や東洋思想から影響を受けているんですね。
現代人が学びたい海外のミニマリスト / カリスマ10人 - アーキペラゴを探して
クイズ これ、何と読むでしょうか?
知っている方もいらっしゃるだろうが
正解は・・・
真ん中の口を周りの漢字に組み込んで読むと、
「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」
いつまでももっともっと、と物を欲しがるのではなく、今持っている物に満足しなさい、という禅の考え方だ。枯山水で有名な京都の龍安寺に、この「知足」のつくばいがある。
仏教においても物欲や性欲などのあらゆる欲は煩悩だとして、俗世的なものと考えられている。
このように、ミニマリズムと禅の思想や仏教と親和的であることは確かだろう。わび・さび、質素、粋などが美徳とされていた歴史的背景も、日本でミニマリズムが広がっている要因の一つかもしれない。
(粋という価値観は、というのは贅沢禁止令の中で、一目ではわからない着物の細かい文様や裏地へのこだわりがさかんになった背景がある、と言われている)
なぜミニマリストは積極的に自らのミニマルな生活を発信する?
疑問に思うのはなぜミニマリストが自らがいかに/どのようにミニマリズムを実践していることを積極的にネット上で発信しているのか、ということだ。はてなブログにおいても、ミニマリストのブログは多いし、いろいろと話題になっている。
しかし興味深いことに、ミニマリストの方の中には、手放すものや、それで得られたすっきりした空間についてブログに書く人がいる。
ブログやSNSでは、どちらかというと買ったもの、自分が手に入れたことやもの……その他欲望を喚起する事柄について書く人の方が目立っていたように思う、これまでは。
だからわざわざ捨てるものを人に見せるというのには、ちょっとした違和感があった。
【追記あり】ミニマリストについて思うこと - イグアナガール
「こんなにたくさんモノを捨てた」「自分の部屋はこんなにモノが少ない」「引越しはたったの15分で終わる」「こんなにシンプルなものしか買わない」というような発信は、どのような心理なのだろうか。
少し考えてみたところ、ミニマリズムはある種の宗教や信仰のようなものではないか、という結論に至った。禅や仏教がそうであるように。自分はそのような方法で幸せになっているので、ほかの人にも広めたい、という気持ちなのだろうか。モノおよび物欲という煩悩にまみれた人々に、ぜひミニマリズムを、ということなのかもしれない。
あるいは「ミニマリスト」という記号を欲しているのかもしれない。自分はもはやモノにあくせくしているのではなく、精神的に豊かな次の段階に来ているということを示したい、とか。(ミニマリストの方のブログをたくさん観察しているわけではないので、あまり多くは言えないが)
その他の疑問点
・ミニマリストの発信を追っているのは、どのような人なのだろうか。すでにミニマリストなのか、ミニマリストの卵なのか、単なる興味や冷やかしなのか。
・ミニマリストでなく、これからもなる予定もない人が見ている場合もあると思われるが、そういった人はどういった気持ちで見ているのか。
何かご意見、情報があればコメントやDMを残してくださるとうれしいです。
注:決してミニマリストの方への侮辱の意はなく、単にミニマリズムの流行という現象の背景を探りたいと考えています。中立的な価値観でこれを書いています。
予告
ユニクロや無印良品のような均一化された商品を扱う勢力が大きくなったので、モノへの愛着が無意味になった、と書いてあるけど、ミニマリストってそういうノームコアっぽいブランド好きだよね— ぱんの (@lunleee) 2016年6月21日
生活や人間関係のあらゆることが商業化された経済の被害者とも言える / 他173コメント https://t.co/6GcZPlb2kJ “水商売慣れし過ぎた俺の婚活” https://t.co/8PxIJ1ZPEz— ぱんの (@lunleee) 2016年6月22日
ノームコアや、人間関係の商品化(レンタル友達/彼女/彼氏/おじさん、パパ活)などにも関心があるので、煮詰まり次第ブログに書く予定。
(続)フジロック騒動から、音楽と政治を社会学的に考えてみた
前のエントリーへの反応や、関連記事を読んで考えたことを、改めてまとめてみたいと思う。
わたしは、音楽そのものに政治を持ち込むのか、音楽イベントに政治を持ち込むのか、というところを明確に分けずに考えてしまっていた。
音楽に政治を持ち込む、といってもそのやり方はいろいろある。
①音楽の形式を用いて強い思想をこめる(→後述する)
②歌詞で政治的な主張をする(比喩含め)
③ステージでMCなどの際にアーティストが政治について語る(前回のエントリーの【追記】)
④音楽イベントでアーティストではない活動家が政治について語る場を用意する(フジロックの場合はこれ)
フジロックに政治色を持ち込むな、と主張している人は、音楽そのものに政治的思想を持ち込むな、と言っているのではなく、音楽イベントに音楽やらない人は来るな、という意味合いで言っている人が多いのだと思う。
#音楽に政治を持ち込むなよ
— 脱税レイヤー風呂屋さん (@557dg4) 2016年6月20日
これを言ってる方って、音楽に政治的意味合いを込める事じゃなく、
この騒動の(政治的)演出性ないしキナ臭さに反感を持ってるんだよね?
だから
「当職は有識者だ、お前らとは違う。音楽とは…」
的なお前は無知だから黙ってろ!理論で鎮火出来るもんじゃないかと
音楽そのものに思想をこめる、とはどういうことか
これをわかりやすく説明している一連のツイートがある。
エルヴィス・プレスリーがロックンロールを電波にのせて全米に届けた時、若者たちはもちろん、彼らの親の世代にも「これは音楽のポルノだ。本質的に不道徳な音楽だ」ということが直感できた。そしてそのロックンロールという形式が持つ力、音楽のポルノグラフィとしての力は未だに死んでないと思う
— cdb (@C4Dbeginner) 2016年6月20日
ロックンロールという形式が、“不道徳” を直感させた、ということらしい。
たしかに、音楽の雰囲気や空気感で、そのミュージシャン(あるいは音楽の作り手)がどういう姿勢で生きているのかをなんとなく感じ取ることがある気がする。
極端かもしれないが、この世の中を賛美しているのか、呪詛しているのかくらいは、音楽から伝わってくるものだろう。
フジロックのアトミックカフェ、てっきり津田大介氏が一通りトーク回したらサマースーツの袖をまくった田原総一郎がバックバンドに「君たち『監獄ロック』できる?できないのどっち?社民党には聞いてないんだよ!」的感じで毎年一曲歌うもんだと思ったら一切歌わないらしいんですよね。歌えよっていう
— cdb (@C4Dbeginner) 2016年6月21日
「音楽イベントで政治を語るなら、歌わないと」という主張は個人的には納得できる。
イデオロギーの乗り物としての音楽
「“音楽に政治を持ち込むな” っていうのなら、国歌もダメだな」という類の発言がネット上で散見されたが、これは「音楽そのものに政治を持ち込むな」という主張に対する批判としてなら有効かもしれないが、「音楽イベントに音楽やらない政治活動家を呼ぶな」という主張に対しては何の効果もない。
イデオロギーをのせるツールとしての音楽には、国歌や軍歌、戦時中のプロパガンダ歌謡、讃美歌をはじめとした宗教歌などが挙げられるだろう。民族音楽をとっても、国や民族、自らの信仰を讃える内容のものは多い。わたしが民族音楽に比較的親しんできた実感としては、東欧やイスラエルなど外的な圧力を強く受けた国家ほど、そういった内容の歌が多い気がする。言えないことを言ったり、わかりやすい形で考えを共有したりするのに、音楽はとても有効だ。
芸術は人間を表現する最も高度な媒体だ。文化の深奥にある意味を伝達すべく研ぎ澄まされている。社会経験を整理し、政治・経済型のコミューンでは届かない人間精神の深奥部に達する媒介役を果たしてくれる。ロックミュージックや新しい芸術、舞踊などが一九六〇年代・七〇年代のベビーブーム世代の時代精神にどれほど永続的な影響を与えたかを見れば、芸術に備わった「社会的な意味」の伝達パワーと、「共有の価値観」を創出するパワーが理解できる。
『エイジ・オブ・アクセス』(ジェレミー・リフキン)より
友人はこう言っていた。
音楽は媒体である。音という物理的エネルギー、力を持った媒体である。それが、どのような意味を持たせるか、誰から誰に伝えられるかによって、力を削がれもするし、増されもする。
その主張はこのツイートにも通じるものがある。
ロックは右にも左にもなりうるし、政治的に正しくも悪くもなりうる。それは「性は正しいか、それとも悪いか」とか「生命は善か悪か」と問うようなものだと思う。
— cdb (@C4Dbeginner) 2016年6月20日
気になった記事
要約すると、投票など政治的に正規なルートでは自分たちの主張が届かない際に、市民権を獲得していない主体(特定の人種、性、価値観など)が、政治的主張に音楽を用いるのはアリだが、日本において自民党か非自民党という政党レベルの議論で「政治色」を持ち出すのはナシ、スケールが違いすぎる、全くお話にならん、という話だ。
投票という正規のルート以外で政治的主張をする、という現象は何を意味するのか
民主主義国家なのだから、投票で変えられるものは、投票で変えればいい。それで変えられそうになかったら別の手段に出るしかない。わかりやすいのはデモ。デモが抑えつけられるのであれば、音楽や小説、映画、漫画、絵画などに、ぼやかした形で主張をのせるしかないだろう。
昨年は、国会前デモが盛り上がった。フジロックに出演するというSEALDsの奥田愛基氏を一躍有名にしたデモだ。そもそも、民主主義国家で投票によらない政治的活動をするとは、どういうことなのか。なぜ、デモという手段に出なければならないのか。
デモをさせる社会的な構造がある
アメリカでは、規模のわりにデモが少ないらしい。それはなぜなのか。デモを引き起こす国と、あまり引き起こさない国では、どのような構造の違いがあるのか。雑誌『広告』5月号では、社会学者の橋爪大三郎氏が以下のように述べている。重要だと思った箇所をいくつか抜粋する。(太字は後付け)
(規模のわりにデモが少ない背景は)アメリカでは民主主義への信頼があついから。政治的意思を投票によって表明する。選挙で選ばれた人びとが法律を制定する。法律の不備は最高裁判所が是正する。こういうルールがあります。このルールに対する信頼があつい。
民主主義は多数派が権力を握り、法律を制定する。法律を制定するのが、社会を変える一番の早道。そこに集中するべきである、というのがアメリカの民主主義なのです。なのでデモは、二次的、三次的な政治活動の手法になる。デモに訴えなくても、各人の意見が反映されるルートがあるという、民主主義への信頼があるのです。
では日本の場合、どうしてデモを起こす人びとに革新勢力が多かったのか。それは自民党が長期にわたり政権与党になっていたという背景がある。政府提案の法案が与党の賛成で法律になり、野党が提案した法案が法律になる可能性はほぼゼロ。なので、院外闘争というかたちで、国会の外から圧力をかけることになる。
日本は構造的に、民主政治のパイプが詰まっているのではないか。「何回選挙をやっても自分の意見はどうせ反映されないんだ」と思えば、パイプが閉じられているみたいな感覚になるのは当然でしょう。
日本ではデモができる。音楽イベントで政治的主張をしても何ら違法ではない。出演者と参加者の合意形成ができていればそれでよい。(フジロックはここで紛糾しているが)
「投票というルートがあるにもかかわらず、ほかの手段に出るなんてダメだ!そこまでかわいそうじゃないのに音楽に持ち込むな!」(かわいそうの程度は誰が判断するのだろう?)という主張は、肯定できない。
言論の自由、集会・結社の自由が基本権として保障されている日本では、どのようなルートで自らの主張をするのかは、その人の自由であるし、そのルートによって善悪が判断されるべきではない。(ルートによって効果的かどうかは異なるだろうが)
また、デモや音楽イベントで政治的な主張がなされる日本の政治的な構造に目を向けなければならない。
どんな現象にも、その背景となる構造がある、というのが社会学の考え方だ。
すこし話がずれてしまった感は否めないが、まとめる。
まとめ
・音楽に政治を持ち込むのか、音楽イベントに政治を持ち込むのか、は分けて考える必要がある。
・音楽の形式そのものに思想的なパワーが内在しうる。それを聴き手は直感として感じ取れる。
・音楽にイデオロギーが込められることに善悪はなく、そのイデオロギーの内実による。
・日本においては、投票という正規の政治的な意思表明ルートが行き詰まっている構造がある。
前編はこちら↓
フジロック騒動から、音楽と政治を社会学的に考えてみた
フジロックから引き起こされた音楽と政治をめぐる問題について、社会学的に考察してみたいと思う。
(わたしは社会学を学ぶ大学生である)
まずは、フジロックをめぐる状況の整理、そしてロックの歴史的背景を確認する。次に、ネット上の言論をピックアップし、それぞれの発言の位置づけを行う。最後に、社会学的見地から考えたことを述べる。
フジロック2016をめぐる状況
フジロックという音楽フェスティバルに、現在の政権や集団的自衛権への批判を表明している人々が出演することを受けて、ネットでは「音楽に政治色を持ち込まないでくれ」という非難の声が上がっている。
【大荒れ】フジロックに津田大介、奥田愛基が参加へ!ネット上では賛否両論!「音楽の政治利用」と批判する声も!|情報速報ドットコム
「音楽の政治利用」の声に対する批判
そのような声に、「そもそもロックとは反体制なんだ」という批判が起こっている。
説明する必要もないことは百も承知だが、ロックは最もポピュラーな反体制の音楽ジャンルだ。ロックが若者に一気に人気を集めた1960年代は、全世界規模で学生運動が活発になり、反戦や自由・平等といったさまざまな政治的課題に人々は燃えた。日本も例外ではなかった。
上記の記事の要約
黒人奴隷の抑圧されたエネルギーは、ブルース、ゴスペル、ソウルを生み出した。20世紀の黒人労働者の怒りがジャズを生み出した。イギリスから独立を果たしたジャマイカでは、その喜びとともにスカが広まった。アフリカ回帰主義のラスタファリ運動が盛んになるなかで、抵抗文化であるレゲエが広まった。フォークもパンクもロックも反権力・反社会とは切り離せないものであるし、ヒップホップも抑圧や貧困に対抗するものであった。
→表題の通り、この世のほとんどの音楽ジャンルの出自は反体制なんじゃい、という話である。
ロックの歴史的な背景のおさらい
高校のときに使っていた世界史の資料集『最新世界史図説 タペストリー』を読み返すと大体こんなことが書いてある。
ロックは1960年代のカウンターカルチャー(対抗文化)の中で興隆したものである。
第二次世界大戦後、戦中で失われた豊かさを取り戻そうと、1950年代は物質的な豊かさが追求された。その中で成長した戦争未経験世代は、1960年代になって大人たちがひたすら物質的豊かさを追求するのを見て、人間性が喪失してしまうことに危機感を覚え、ヒッピーやロックなどのカウンターカルチャーを生み出した。
60年代半ばのベトナム戦争や公民権運動は、このような若者文化をさらに加速させた。たとえば、1969年にアメリカのニューヨーク州で行われたウッドストック・フェスティバルは世界にヒッピー文化の核とされる価値観の「ラブ&ピース」を世界に訴え、200万人が参加したとも言われる。
ヒッピー:1960年代後半にアメリカのヴェトナム反戦運動や公民権運動を中心とする反体制運動から生まれた、「ラブ&ピース」を提唱し自然回帰を目指す若者の総称およびそのムーヴメント。
「音楽に政治を持ち込むな」を受けてのTwitter上の反応をタイプ分けすると
(1)ロックと反社会・反体制の切り離せない関係に言及
(2)ロックが本来 反体制的なものであっても、今は状況が違うのでそれで批判が成立していることにならない
(3)日本の音楽シーンにおいては、社会問題が扱われることが異常に少ない
(4)リスナーが求めることは自由である一方、ミュージシャンが表現することも自由
(5)芸術全般が反体制と結びつく意義
(1)ロックと反社会・反体制の切り離せない関係に言及
音楽に政治を持ち込むな論は実に面白いね。日本において、ロックが対抗文化として受容されてきた歴史がある以上、それらは出自からして既に政治性を帯びている。その受容期には、ロックやフォークは政治性を帯びていてこそ評価され、そうでないものは商業的過ぎるとして批判の対象だったものだ。
— 松井計 (@matsuikei) 2016年6月19日
僕は世間との軋轢を生み出すことがロックだと思ってきた。けど、今は世間との軋轢から逃げ込むところがロックなのかね。
— ECD (@ecdecdecd) 2016年6月18日
(2)ロックが本来反体制的なものであっても、今は状況が違うのでそれで批判が成立していることにならない
音楽に政治を持ち込むなって話、音を楽しむ以外の要素はいらないって思う気持ちはわかる気がする。昔と今は違うから、そういう人たちに昔はこうだったって言ってもしかたないし。私も昔の音楽については知識としてしか知らないし。当時はそれが流行で、今はそうじゃないってだけなのかもしれないし。
— 瀧波ユカリ (@takinamiyukari) 2016年6月20日
だから、「ロックは本来、反体制的なもの」というありがちな意見を述べている人達には、いつの時代の話ですか?とならざるを得ない。
— kentarotakahashi (@kentarotakahash) 2016年6月19日
もちろん、体制補完的であることも、その音楽が帯びている政治性ではある。表現者が政治的である/ない、政治的なメッセージを表現にこめている/こめていない、にかかわらず、音楽作品は政治性を帯びる、あるいは与えられる。
— kentarotakahashi (@kentarotakahash) 2016年6月19日
(3)日本の音楽シーンにおいては、社会問題が扱われることが異常に少ない
音楽が基本反体制的であるかはちょっと疑問があるけど、日本以外のポップソングは政治や社会問題を歌うのが普通で、特にイスラム圏なんかはそれ以外ないってくらい社会啓発ソングばっかりだよ。歌なら反体制的な思想も認められるからそうなってる背景もあるんだけどね。
— 牛心。 -ushikokoro (@beefsoul) 2016年6月19日
日本の音楽は愛だの恋だのの歌が主流だし、たまに政治的な歌詞を歌えば炎上して謝っちゃうし、洋楽は歌詞なんか知ったこっちゃないし。でも早いとこ日本の「考えない」風潮を改めた方がいいなとひしひしと思う今日この頃。考えてない方が主流で考えてる方がビョーキでキモいっていうのはやっぱり変よ。
— Wisteria Shade★ (@WisteriaShade) 2016年6月19日
(4)リスナーが求めることは自由である一方、ミュージシャンが表現することも自由(アジカンのボーカル)
「読経に宗教性を持ち込まないでください」みたいな言説だよね。フジロックと政治について。まあでも、「音楽に政治性を持ち込むな」みたいな意見は、リスナーは自由に言っていいと思う。そういう意見に忖度するかどうかも、作り手の自由。俺はまあ、書きたいことを書く。ってのがフェアだよね。
— Gotch (@gotch_akg) 2016年6月19日
でも、当の本人(俺)は、音楽に持ち込んでいるのは社会性だと思ってるんだけれどね。政治性じゃない。社会と関わろうっていう、あるいは社会と関わらずにはいられない、ってことなんだけど。まあ、ゆっくり曲を書きながら、説明してゆくしかないね、このあたり。誤解されたとしても。— Gotch (@gotch_akg) 2016年6月19日
(5)芸術全般が反体制と結びつく意義
「音楽に政治を持ち込むな」と主張している人たちは、あらゆる人間の営為(恋愛、友情、祈り、嘆き、感謝、生活、歓喜、憎悪、怒り、皮肉、政治、旅などなど)を包摂する芸術である音楽から、特定の要素だけを排除できると考えている点でアタマがおかしいと思うんだが。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2016年6月19日
古今東西、芸術や芸能は共同体の中で異人(ストレンジャー)の役割を果たしてきた。共同体がいつしか持ってしまった固定観念に風穴を開け、土台をぐらつかせることで、停滞した共同体を活性化するトリックスターのような存在。短期的には「反体制」にみえても、長期的には共同体にとって必要不可欠。— ヲノサトル (@wonosatoru) 2016年6月19日
わたしが考えたこと
19世紀のドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーは、人間の社会的行為を次の4つに分類した。
①目的合理的行為
例:お金を稼ぐために働く
②価値合理的行為
例:この思想が正しいと思うのでこのように行動する
③感情的行為
例:楽しいから遊ぶ
④伝統的行為
例:しきたりだからお節を食べる
詳しくは氏の著書『社会学の基礎概念』の第二章「社会的行為の諸動機」に載っているので、気になる方は読んでみるといいかもしれない。
ヴェーバーの行為の四つの類型をふまえて、音楽と政治を考えてみる。
60年代頃のロックやヒッピー文化は、反戦・平和・人間の本性への回帰が軸になった②価値合理的行為である。
しかし、フジロックに対するネット民のブーイングからわかるように、現在、日本でロックを愛好する人には、思想やイデオロギー抜きに純粋に音楽を楽しもうという姿勢の人が一定数いる(③感情的行為)。
アジカンのボーカルであるGotchさんのツイートからもわかるように、フェスティバルの主催者・出演者(一部?)側は、音楽の純粋なエンターテイメント(③感情的行為)だけでなく、反政権、平和への訴えなどをフェスに盛り込もうとしている(②価値合理的行為)。
この行為の分類を前提に、一連の流れを簡略化してみると・・・
ネット民「単純に音楽だけ楽しませてよ。政治なんか知らねーよ」(③感情的行為)
ミュージシャン・主催者「いやいや、音楽ってただ楽しむためのもんだけじゃないから(②価値合理的行為+③感情的行為)
知識人など「そもそも、ロックってのは、反体制が軸になってるものなんだよ。君たちそんなことも知らないの」(②価値合理的行為+④伝統的行為)
つまり、ロックに対するそれぞれのスタンスの違いから、この一連の論争が起こっているのである。だから、誰が正しくて、誰が間違っている、というわけではない。
日本の音楽シーンでは、他国に比べて社会問題が扱われることが異常に少ないのはどうなのか、というツイート群を見ても、日本という国はそういった問題に対して世界からみても「臭いものにはふた」をしてしまう傾向にあるのだろう。
そのような傾向は、地理的・環境的要因によるところが大きいと思われる。日本は島国という閉鎖的の環境のうえ、農耕民族ゆえ定住民であるので、いざこざが起こっても逃げ場がない。その中で暮らしていくためには、いさかいができるだけ起こらないように根回しするか、起こったとしてもうやむやにするのが都合がよかった。
(こういった環境のなかで、日本は同調圧力がかかりやすい社会になっていった。)
そのため「音楽は憂さ晴らしになればよく、そこに政治などという火種を突っ込むな」と考える人が比較的多いのだろう。
しかし、自分の音楽を楽しむスタンスに合わないからと言って、ただただ非難するのは子供じみていると思う。 これは、感情を重視する人々にも、価値合理/伝統を重視する人々にも当てはまる。
そもそも音楽・芸術というものはエネルギーの露発であるから、そのエネルギーの源の一つとして政治的な不平や不満があるのは至極当然なことであり、そこに対しての拒否反応を示すのは過敏なのではないか。
ただでさえ言論の場で政治的な発言をしにくい環境がある上に、音楽シーンからも政治的な色が完全に退けられてしまったら、それは不健全な状態になってしまいかねない。
【追記】
いただいたコメントや関連する他の記事を読んで、思ったことを少し付け加える。
政治的な主張をしてもサマになるほど骨のあるアーティストがいないフェスで政治的なことをやられると違和感があるという話しだと思う。
ミュージシャンはフェスに政治を持ち込まないでほしい。 #音楽に政治を持ち込むなよ を眺めて : 状況が抉る部屋
去年のライジングサンで、ある大物ミュージシャンがMCで反原発の話をしていて、その主張の稚拙さに、ライブで盛り上がっていた感情が一気に冷めてしまった。同様の感想を持った方もいたと思う。
ミュージシャンが盛り込んだ政治的主張が稚拙だったとき、音楽で盛り上がっていた感情が一気に冷めてしまう。そう感じる人がいるのを意識した上で、ミュージシャンはフェスのライブに政治を持ちこんでほしいと思う。
音楽が政治的主張が盛り込んで生まれた以上、音楽に政治的主張を盛り込むことを完全には否定をしないけど、もし、政治的主張を盛り込むのだったら聴くに値する政治的メッセージや表現手法であってほしい。それが盛り込めないのだったら、やめてほしい。
確かに、大好きなアーティストが素晴らしい演奏の後に、稚拙な政治的主張を繰り広げたら、興ざめしてしまうかもしれない。その主張が自分の考えに合っていても合っていなくても。たとえば原発反対の主張にしても、その言い方が雑だったら、ちゃんと考えて発言してるのかな、と思ってしまうだろう。
わたしは、ロックをあまり聴かないし、フジロックに誰が出るのかもちゃんと把握していない。その中に好きなアーティストも(たぶん)いないし、思い入れはない。だから、「多少、政治的なものが持ち込まれても別にいいでしょう。完全にシャットアウトするほうが不健全」という、若干いい子ちゃんぶった主張をすることができた。
フジロックに対する音楽的な思い入れが強ければ強いほど、興ざめする可能性があるものが持ち込まれることに、拒否感をいだいてしまうのだろう。
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