フジロック騒動から、音楽と政治を社会学的に考えてみた
フジロックから引き起こされた音楽と政治をめぐる問題について、社会学的に考察してみたいと思う。
(わたしは社会学を学ぶ大学生である)
まずは、フジロックをめぐる状況の整理、そしてロックの歴史的背景を確認する。次に、ネット上の言論をピックアップし、それぞれの発言の位置づけを行う。最後に、社会学的見地から考えたことを述べる。
フジロック2016をめぐる状況
フジロックという音楽フェスティバルに、現在の政権や集団的自衛権への批判を表明している人々が出演することを受けて、ネットでは「音楽に政治色を持ち込まないでくれ」という非難の声が上がっている。
【大荒れ】フジロックに津田大介、奥田愛基が参加へ!ネット上では賛否両論!「音楽の政治利用」と批判する声も!|情報速報ドットコム
「音楽の政治利用」の声に対する批判
そのような声に、「そもそもロックとは反体制なんだ」という批判が起こっている。
説明する必要もないことは百も承知だが、ロックは最もポピュラーな反体制の音楽ジャンルだ。ロックが若者に一気に人気を集めた1960年代は、全世界規模で学生運動が活発になり、反戦や自由・平等といったさまざまな政治的課題に人々は燃えた。日本も例外ではなかった。
上記の記事の要約
黒人奴隷の抑圧されたエネルギーは、ブルース、ゴスペル、ソウルを生み出した。20世紀の黒人労働者の怒りがジャズを生み出した。イギリスから独立を果たしたジャマイカでは、その喜びとともにスカが広まった。アフリカ回帰主義のラスタファリ運動が盛んになるなかで、抵抗文化であるレゲエが広まった。フォークもパンクもロックも反権力・反社会とは切り離せないものであるし、ヒップホップも抑圧や貧困に対抗するものであった。
→表題の通り、この世のほとんどの音楽ジャンルの出自は反体制なんじゃい、という話である。
ロックの歴史的な背景のおさらい
高校のときに使っていた世界史の資料集『最新世界史図説 タペストリー』を読み返すと大体こんなことが書いてある。
ロックは1960年代のカウンターカルチャー(対抗文化)の中で興隆したものである。
第二次世界大戦後、戦中で失われた豊かさを取り戻そうと、1950年代は物質的な豊かさが追求された。その中で成長した戦争未経験世代は、1960年代になって大人たちがひたすら物質的豊かさを追求するのを見て、人間性が喪失してしまうことに危機感を覚え、ヒッピーやロックなどのカウンターカルチャーを生み出した。
60年代半ばのベトナム戦争や公民権運動は、このような若者文化をさらに加速させた。たとえば、1969年にアメリカのニューヨーク州で行われたウッドストック・フェスティバルは世界にヒッピー文化の核とされる価値観の「ラブ&ピース」を世界に訴え、200万人が参加したとも言われる。
ヒッピー:1960年代後半にアメリカのヴェトナム反戦運動や公民権運動を中心とする反体制運動から生まれた、「ラブ&ピース」を提唱し自然回帰を目指す若者の総称およびそのムーヴメント。
「音楽に政治を持ち込むな」を受けてのTwitter上の反応をタイプ分けすると
(1)ロックと反社会・反体制の切り離せない関係に言及
(2)ロックが本来 反体制的なものであっても、今は状況が違うのでそれで批判が成立していることにならない
(3)日本の音楽シーンにおいては、社会問題が扱われることが異常に少ない
(4)リスナーが求めることは自由である一方、ミュージシャンが表現することも自由
(5)芸術全般が反体制と結びつく意義
(1)ロックと反社会・反体制の切り離せない関係に言及
音楽に政治を持ち込むな論は実に面白いね。日本において、ロックが対抗文化として受容されてきた歴史がある以上、それらは出自からして既に政治性を帯びている。その受容期には、ロックやフォークは政治性を帯びていてこそ評価され、そうでないものは商業的過ぎるとして批判の対象だったものだ。
— 松井計 (@matsuikei) 2016年6月19日
僕は世間との軋轢を生み出すことがロックだと思ってきた。けど、今は世間との軋轢から逃げ込むところがロックなのかね。
— ECD (@ecdecdecd) 2016年6月18日
(2)ロックが本来反体制的なものであっても、今は状況が違うのでそれで批判が成立していることにならない
音楽に政治を持ち込むなって話、音を楽しむ以外の要素はいらないって思う気持ちはわかる気がする。昔と今は違うから、そういう人たちに昔はこうだったって言ってもしかたないし。私も昔の音楽については知識としてしか知らないし。当時はそれが流行で、今はそうじゃないってだけなのかもしれないし。
— 瀧波ユカリ (@takinamiyukari) 2016年6月20日
だから、「ロックは本来、反体制的なもの」というありがちな意見を述べている人達には、いつの時代の話ですか?とならざるを得ない。
— kentarotakahashi (@kentarotakahash) 2016年6月19日
もちろん、体制補完的であることも、その音楽が帯びている政治性ではある。表現者が政治的である/ない、政治的なメッセージを表現にこめている/こめていない、にかかわらず、音楽作品は政治性を帯びる、あるいは与えられる。
— kentarotakahashi (@kentarotakahash) 2016年6月19日
(3)日本の音楽シーンにおいては、社会問題が扱われることが異常に少ない
音楽が基本反体制的であるかはちょっと疑問があるけど、日本以外のポップソングは政治や社会問題を歌うのが普通で、特にイスラム圏なんかはそれ以外ないってくらい社会啓発ソングばっかりだよ。歌なら反体制的な思想も認められるからそうなってる背景もあるんだけどね。
— 牛心。 -ushikokoro (@beefsoul) 2016年6月19日
日本の音楽は愛だの恋だのの歌が主流だし、たまに政治的な歌詞を歌えば炎上して謝っちゃうし、洋楽は歌詞なんか知ったこっちゃないし。でも早いとこ日本の「考えない」風潮を改めた方がいいなとひしひしと思う今日この頃。考えてない方が主流で考えてる方がビョーキでキモいっていうのはやっぱり変よ。
— Wisteria Shade★ (@WisteriaShade) 2016年6月19日
(4)リスナーが求めることは自由である一方、ミュージシャンが表現することも自由(アジカンのボーカル)
「読経に宗教性を持ち込まないでください」みたいな言説だよね。フジロックと政治について。まあでも、「音楽に政治性を持ち込むな」みたいな意見は、リスナーは自由に言っていいと思う。そういう意見に忖度するかどうかも、作り手の自由。俺はまあ、書きたいことを書く。ってのがフェアだよね。
— Gotch (@gotch_akg) 2016年6月19日
でも、当の本人(俺)は、音楽に持ち込んでいるのは社会性だと思ってるんだけれどね。政治性じゃない。社会と関わろうっていう、あるいは社会と関わらずにはいられない、ってことなんだけど。まあ、ゆっくり曲を書きながら、説明してゆくしかないね、このあたり。誤解されたとしても。— Gotch (@gotch_akg) 2016年6月19日
(5)芸術全般が反体制と結びつく意義
「音楽に政治を持ち込むな」と主張している人たちは、あらゆる人間の営為(恋愛、友情、祈り、嘆き、感謝、生活、歓喜、憎悪、怒り、皮肉、政治、旅などなど)を包摂する芸術である音楽から、特定の要素だけを排除できると考えている点でアタマがおかしいと思うんだが。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2016年6月19日
古今東西、芸術や芸能は共同体の中で異人(ストレンジャー)の役割を果たしてきた。共同体がいつしか持ってしまった固定観念に風穴を開け、土台をぐらつかせることで、停滞した共同体を活性化するトリックスターのような存在。短期的には「反体制」にみえても、長期的には共同体にとって必要不可欠。— ヲノサトル (@wonosatoru) 2016年6月19日
わたしが考えたこと
19世紀のドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーは、人間の社会的行為を次の4つに分類した。
①目的合理的行為
例:お金を稼ぐために働く
②価値合理的行為
例:この思想が正しいと思うのでこのように行動する
③感情的行為
例:楽しいから遊ぶ
④伝統的行為
例:しきたりだからお節を食べる
詳しくは氏の著書『社会学の基礎概念』の第二章「社会的行為の諸動機」に載っているので、気になる方は読んでみるといいかもしれない。
ヴェーバーの行為の四つの類型をふまえて、音楽と政治を考えてみる。
60年代頃のロックやヒッピー文化は、反戦・平和・人間の本性への回帰が軸になった②価値合理的行為である。
しかし、フジロックに対するネット民のブーイングからわかるように、現在、日本でロックを愛好する人には、思想やイデオロギー抜きに純粋に音楽を楽しもうという姿勢の人が一定数いる(③感情的行為)。
アジカンのボーカルであるGotchさんのツイートからもわかるように、フェスティバルの主催者・出演者(一部?)側は、音楽の純粋なエンターテイメント(③感情的行為)だけでなく、反政権、平和への訴えなどをフェスに盛り込もうとしている(②価値合理的行為)。
この行為の分類を前提に、一連の流れを簡略化してみると・・・
ネット民「単純に音楽だけ楽しませてよ。政治なんか知らねーよ」(③感情的行為)
ミュージシャン・主催者「いやいや、音楽ってただ楽しむためのもんだけじゃないから(②価値合理的行為+③感情的行為)
知識人など「そもそも、ロックってのは、反体制が軸になってるものなんだよ。君たちそんなことも知らないの」(②価値合理的行為+④伝統的行為)
つまり、ロックに対するそれぞれのスタンスの違いから、この一連の論争が起こっているのである。だから、誰が正しくて、誰が間違っている、というわけではない。
日本の音楽シーンでは、他国に比べて社会問題が扱われることが異常に少ないのはどうなのか、というツイート群を見ても、日本という国はそういった問題に対して世界からみても「臭いものにはふた」をしてしまう傾向にあるのだろう。
そのような傾向は、地理的・環境的要因によるところが大きいと思われる。日本は島国という閉鎖的の環境のうえ、農耕民族ゆえ定住民であるので、いざこざが起こっても逃げ場がない。その中で暮らしていくためには、いさかいができるだけ起こらないように根回しするか、起こったとしてもうやむやにするのが都合がよかった。
(こういった環境のなかで、日本は同調圧力がかかりやすい社会になっていった。)
そのため「音楽は憂さ晴らしになればよく、そこに政治などという火種を突っ込むな」と考える人が比較的多いのだろう。
しかし、自分の音楽を楽しむスタンスに合わないからと言って、ただただ非難するのは子供じみていると思う。 これは、感情を重視する人々にも、価値合理/伝統を重視する人々にも当てはまる。
そもそも音楽・芸術というものはエネルギーの露発であるから、そのエネルギーの源の一つとして政治的な不平や不満があるのは至極当然なことであり、そこに対しての拒否反応を示すのは過敏なのではないか。
ただでさえ言論の場で政治的な発言をしにくい環境がある上に、音楽シーンからも政治的な色が完全に退けられてしまったら、それは不健全な状態になってしまいかねない。
【追記】
いただいたコメントや関連する他の記事を読んで、思ったことを少し付け加える。
政治的な主張をしてもサマになるほど骨のあるアーティストがいないフェスで政治的なことをやられると違和感があるという話しだと思う。
ミュージシャンはフェスに政治を持ち込まないでほしい。 #音楽に政治を持ち込むなよ を眺めて : 状況が抉る部屋
去年のライジングサンで、ある大物ミュージシャンがMCで反原発の話をしていて、その主張の稚拙さに、ライブで盛り上がっていた感情が一気に冷めてしまった。同様の感想を持った方もいたと思う。
ミュージシャンが盛り込んだ政治的主張が稚拙だったとき、音楽で盛り上がっていた感情が一気に冷めてしまう。そう感じる人がいるのを意識した上で、ミュージシャンはフェスのライブに政治を持ちこんでほしいと思う。
音楽が政治的主張が盛り込んで生まれた以上、音楽に政治的主張を盛り込むことを完全には否定をしないけど、もし、政治的主張を盛り込むのだったら聴くに値する政治的メッセージや表現手法であってほしい。それが盛り込めないのだったら、やめてほしい。
確かに、大好きなアーティストが素晴らしい演奏の後に、稚拙な政治的主張を繰り広げたら、興ざめしてしまうかもしれない。その主張が自分の考えに合っていても合っていなくても。たとえば原発反対の主張にしても、その言い方が雑だったら、ちゃんと考えて発言してるのかな、と思ってしまうだろう。
わたしは、ロックをあまり聴かないし、フジロックに誰が出るのかもちゃんと把握していない。その中に好きなアーティストも(たぶん)いないし、思い入れはない。だから、「多少、政治的なものが持ち込まれても別にいいでしょう。完全にシャットアウトするほうが不健全」という、若干いい子ちゃんぶった主張をすることができた。
フジロックに対する音楽的な思い入れが強ければ強いほど、興ざめする可能性があるものが持ち込まれることに、拒否感をいだいてしまうのだろう。
続編はこちら↓