(続)フジロック騒動から、音楽と政治を社会学的に考えてみた

 前のエントリーへの反応や、関連記事を読んで考えたことを、改めてまとめてみたいと思う。

 

lolllol.hatenablog.com

 

 わたしは、音楽そのものに政治を持ち込むのか、音楽イベントに政治を持ち込むのか、というところを明確に分けずに考えてしまっていた。

 音楽に政治を持ち込む、といってもそのやり方はいろいろある。

 

音楽の形式を用いて強い思想をこめる(→後述する)

歌詞で政治的な主張をする(比喩含め)

ステージでMCなどの際にアーティストが政治について語る(前回のエントリーの【追記】)

音楽イベントでアーティストではない活動家が政治について語る場を用意する(フジロックの場合はこれ)

 

 フジロックに政治色を持ち込むな、と主張している人は、音楽そのものに政治的思想を持ち込むな、と言っているのではなく、音楽イベントに音楽やらない人は来るな、という意味合いで言っている人が多いのだと思う。

 

twitter.com

 

 音楽そのものに思想をこめる、とはどういうことか

 これをわかりやすく説明している一連のツイートがある。

 


 ロックンロールという形式が、“不道徳” を直感させた、ということらしい。

 たしかに、音楽の雰囲気や空気感で、そのミュージシャン(あるいは音楽の作り手)がどういう姿勢で生きているのかをなんとなく感じ取ることがある気がする。

 極端かもしれないが、この世の中を賛美しているのか、呪詛しているのかくらいは、音楽から伝わってくるものだろう。



「音楽イベントで政治を語るなら、歌わないと」という主張は個人的には納得できる。

 

イデオロギーの乗り物としての音楽

 

「“音楽に政治を持ち込むな” っていうのなら、国歌もダメだな」という類の発言がネット上で散見されたが、これは「音楽そのものに政治を持ち込むな」という主張に対する批判としてなら有効かもしれないが、「音楽イベントに音楽やらない政治活動家を呼ぶな」という主張に対しては何の効果もない。

 

 イデオロギーをのせるツールとしての音楽には、国歌や軍歌、戦時中のプロパガンダ歌謡、讃美歌をはじめとした宗教歌などが挙げられるだろう民族音楽をとっても、国や民族、自らの信仰を讃える内容のものは多い。わたしが民族音楽に比較的親しんできた実感としては、東欧やイスラエルなど外的な圧力を強く受けた国家ほど、そういった内容の歌が多い気がする。言えないことを言ったり、わかりやすい形で考えを共有したりするのに、音楽はとても有効だ。

 

 芸術は人間を表現する最も高度な媒体だ。文化の深奥にある意味を伝達すべく研ぎ澄まされている。社会経験を整理し、政治・経済型のコミューンでは届かない人間精神の深奥部に達する媒介役を果たしてくれる。ロックミュージックや新しい芸術、舞踊などが一九六〇年代・七〇年代のベビーブーム世代の時代精神にどれほど永続的な影響を与えたかを見れば、芸術に備わった「社会的な意味」の伝達パワーと、「共有の価値観」を創出するパワーが理解できる。

『エイジ・オブ・アクセス』(ジェレミー・リフキン)より

 

友人はこう言っていた。

音楽は媒体である。音という物理的エネルギー、力を持った媒体である。それが、どのような意味を持たせるか、誰から誰に伝えられるかによって、力を削がれもするし、増されもする。

 

その主張はこのツイートにも通じるものがある。

 

気になった記事

note.mu

 

 要約すると、投票など政治的に正規なルートでは自分たちの主張が届かない際に、市民権を獲得していない主体(特定の人種、性、価値観など)が、政治的主張に音楽を用いるのはアリだが、日本において自民党か非自民党という政党レベルの議論で「政治色」を持ち出すのはナシ、スケールが違いすぎる、全くお話にならん、という話だ。

 

投票という正規のルート以外で政治的主張をする、という現象は何を意味するのか

 

 民主主義国家なのだから、投票で変えられるものは、投票で変えればいい。それで変えられそうになかったら別の手段に出るしかない。わかりやすいのはデモ。デモが抑えつけられるのであれば、音楽や小説、映画、漫画、絵画などに、ぼやかした形で主張をのせるしかないだろう。

 

 昨年は、国会前デモが盛り上がった。フジロックに出演するというSEALDsの奥田愛基氏を一躍有名にしたデモだ。そもそも、民主主義国家で投票によらない政治的活動をするとは、どういうことなのか。なぜ、デモという手段に出なければならないのか。

 

デモをさせる社会的な構造がある

 

 アメリカでは、規模のわりにデモが少ないらしい。それはなぜなのか。デモを引き起こす国と、あまり引き起こさない国では、どのような構造の違いがあるのか。雑誌『広告』5月号では、社会学橋爪大三郎が以下のように述べている。重要だと思った箇所をいくつか抜粋する。(太字は後付け)

 

広告 2016年 05 月号 [雑誌]

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 (規模のわりにデモが少ない背景は)アメリカでは民主主義への信頼があついから。政治的意思を投票によって表明する。選挙で選ばれた人びとが法律を制定する。法律の不備は最高裁判所が是正する。こういうルールがあります。このルールに対する信頼があつい。

 

民主主義は多数派が権力を握り、法律を制定する。法律を制定するのが、社会を変える一番の早道。そこに集中するべきである、というのがアメリカの民主主義なのです。なのでデモは、二次的、三次的な政治活動の手法になる。デモに訴えなくても、各人の意見が反映されるルートがあるという、民主主義への信頼があるのです

 

では日本の場合、どうしてデモを起こす人びとに革新勢力が多かったのか。それは自民党が長期にわたり政権与党になっていたという背景がある。政府提案の法案が与党の賛成で法律になり、野党が提案した法案が法律になる可能性はほぼゼロ。なので、院外闘争というかたちで、国会の外から圧力をかけることになる。

 

日本は構造的に、民主政治のパイプが詰まっているのではないか。「何回選挙をやっても自分の意見はどうせ反映されないんだ」と思えば、パイプが閉じられているみたいな感覚になるのは当然でしょう。

 

 日本ではデモができる。音楽イベントで政治的主張をしても何ら違法ではない。出演者と参加者の合意形成ができていればそれでよい。(フジロックはここで紛糾しているが)

「投票というルートがあるにもかかわらず、ほかの手段に出るなんてダメだ!そこまでかわいそうじゃないのに音楽に持ち込むな!」(かわいそうの程度は誰が判断するのだろう?)という主張は、肯定できない。

 

 言論の自由、集会・結社の自由が基本権として保障されている日本では、どのようなルートで自らの主張をするのかは、その人の自由であるし、そのルートによって善悪が判断されるべきではない。(ルートによって効果的かどうかは異なるだろうが)

 また、デモや音楽イベントで政治的な主張がなされる日本の政治的な構造に目を向けなければならない。

 どんな現象にも、その背景となる構造がある、というのが社会学の考え方だ。

 

すこし話がずれてしまった感は否めないが、まとめる。

 

まとめ

 

・音楽に政治を持ち込むのか、音楽イベントに政治を持ち込むのか、は分けて考える必要がある。

・音楽の形式そのものに思想的なパワーが内在しうる。それを聴き手は直感として感じ取れる。

・音楽にイデオロギーが込められることに善悪はなく、そのイデオロギーの内実による。

・日本においては、投票という正規の政治的な意思表明ルートが行き詰まっている構造がある。

 

前編はこちら↓

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