子ども難民の生活を体感するという“エンタメ”

カンヌライオンズという広告祭があるのをご存知でしょうか。

映画祭の広告バージョンを想像するとわかりやすいかもしれません。世界から優れた広告を選ぶイベントです。

 

世界にある数々の広告・コミュニケーション関連のアワードやフェスティバルの中でも、エントリー数・来場者数ともに最大規模を誇るのが「カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル(Cannes Lions International Festival of Creativity)」です。期間中に同時開催されるライオンズヘルス、ライオンズイノベーションと合わせて(2016年はライオンズエンターテインメントが新設)約100カ国から15,000人以上の来場者が集まり、全21部門に40,000点を超える作品が応募される一大グローバルイベントのカンヌライオンズは、広告を超えた様々な業界からの注目度も益々高まっています。

概要 | カンヌライオンズ日本公式サイト 

 

この広告祭では今年「エンターテイメント部門」が新設されました。

 

メディアのプラットフォームがどんどん増えていき、今までの伝統的な30秒のCMを作るだけではダメで、視聴者も何か新しい形で楽しませてくれるエンターテイメントを期待している。そんな新しい形でエンターテインしてくれるものに与えられるのがこの賞。

 

www.aoi-kokusaiblog.com

 

エンターテイメント部門のグランプリとして選ばれたのは、シリアの子ども難民の生活をVRで体感するものでした。

 

www.youtube.com

 

 エンターテインメント部門のグランプリは「THE DISPLACED」。ニューヨークタイムズが段ボール製VRゴーグルを読者に提供したキャンペーン。専用アプリをダウンロードしたiPhoneAndroidスマートフォンをゴーグルに設置して覗くと、シリア地域に暮らす子ども難民の過酷な状況が体感できるというもの。

カンヌライオンズ受賞速報:新設のエンターテインメント部門受賞作発表 | AdverTimes(アドタイ)

 

審査員曰く、ただentertaining(楽しませる)するだけではダメで、クライアントに実際に結果を供給しつつ、entertainmentである作品がこの賞を受賞すると。

新しい形のエンターテインメントという意味では妥当な受賞かと思いました。

[カンヌ2016] Entertainment Lions / Entertainment Lions for Music部門グランプリ発表!!|KOKUSAI-I【AOI Pro.】

 

なるほどね、ひどい環境のなかであくせくしつつも、けなげに無邪気な笑顔をこぼしたりする子ども難民をVRで体感するのが、最も新しく、最もアツく、最もクールなエンターテイメントだというわけですか。左様ですか。

 

自分とは無関係の厳しい状況を、まるでその場にいるかのように体感してから、デバイスをはずすとそこには平穏な日常が帰ってきて、その落差に喜びを感じるタイプのエンターテイメント。もはやフィクションの中の悲劇では飽き足らず、ノンフィクションでドキュメンタリーでリアリティのある悲劇をお手頃に体感できる時代なんですね。

「わたし、シリアの問題にもこうやって心をきちんと痛めているんだもの」

2秒後には、痛みがなくなるでしょう。いや、むしろ快感が勝つでしょう。

 

この映像がひどい、というわけではない。子ども難民の生活を、当然のようにエンタメとして消費する神経がおぞましいとわたしは感じるのです。

 

以下、ボードリヤール『消費社会の神話と構造』から引用です。

 

消費社会の神話と構造 新装版

消費社会の神話と構造 新装版

 

 

消費社会の特徴は、マス・コミュニケーション全体が三面記事的な性格を帯びていることである。政治的・歴史的・文化的なあらゆる情報は、三面記事という当たり障りのない、しかし同時に奇蹟を呼ぶような形式で受け入れられる。これらの情報はまったく現実的なもの、つまり目につきやすいように劇的にされ、同時にまったく非現実的なもの、すなわちコミュニケーションという媒介物によって現実から遠ざけられ記号に還元される

 

テレビで見たり聞いたりしたことは、本当にその場にいなかったことにほかならないのだから。けれども、重要なのは真実以上に真実らしいこと、いいかえればその場にいなくともそこにいること、つまり幻視なのである。

 

VRはまさに幻視の最先端ですね。

 

気分を高めるために消費された恒常的な暴力を必要としている。これが日常性のいやらしさであり、おどよい室温になったワインのように供されるなら、出来事や暴力が大好きなのだ。 


ああ、なんてバラ色な消費社会にわたしたちは生きているんでしょうね。

ふつうの日記

こんばんは、ぱんのです。
最近はゴリゴリ系の記事が続いていたので、反動からふつうの日記が書きたくなりました。日記といえば、小学生のときに週末に日記を書く宿題がよく出されました。「あのね帳」ってやつ。先生あのね、から書き出すのが良いとされていたらしいですが、全く守っていませんでした。まあ、ロッケンローな小学生だったのです。
 
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日記、嫌いだったなあ。どこかちゃんとお出かけしないと、書けないって思っていたので。自分の心の中に浮かんでくることをつらつら書く、などという芸当はできなかったのです。
だから、「今日はマクドナルドに行きました。ハッピーセットのおもちゃがしょうもなかったので、とてもがっかりです」なんて書いていました。ショッピングモールに行きました、とかね。たいてい楽しかった、なんですよね。表現の幅もないからね。読み返してみても、小学生らしい発想がユニークなやつなんてありませんでした。ざんねん。
 
将来の夢に「お父さんみたいに会社員になって、1日も休まずに働きたいです」って書いてました。まさかの将来の夢が社畜
隣の子が、スチュワーデスが将来の夢だー、って言っていて「文に書いたら、私の将来の夢はスチュワーデスです、になるんやけど。ですです、やってー、変なのー」と面白がっていました。なぜかこのくだりをめっちゃ鮮明に覚えています。ですです、とニヤニヤしてつぶやきながら、わたしは社畜な夢を書き殴っていたわけです。
 
あれ、日記書こうとしたら話がずれていました。今日の話をします。今日は朝7時くらいに目が覚めました。3時に寝たのに。最近はやたら朝早くに目が覚めます。意味がわかりません。わたしのアイデンティティのひとつにロングスリーパーというのがある(中学生のときに17時間を記録しました)にもかかわらず、このザマです。ちなみに、胃腸が強いというのもアイデンティティのひとつだったのですが、最近はめっきりおながが弱くなってしまいました。アイデンティティ喪失の危機です。つらい。絶対、二つとも取り戻してみせます、ええ。

そう、それで朝早くに目が覚めて(話が進まない)、スマホでニュースをチェックしたりなんかして、あとはてなブックマークをやっと使いこなせるようになったので、がんがんブクマします。なんて便利なんだ!はてなブックマーク!これまではまた読み返したいと思う記事のURLをメモ帳に地道に貼り付けていたのに! 他の人の反応まで見れるなんて。もっと早く教えてくれよな。今更だよ。
 
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そして朝ごはんを食べて、ウクレレを弾きました。ウクレレは今年の頭にはじめたのですが、めっちゃ楽しいです。小さいので、弾きたいときにさっと出せるし、軽いし、音はリラックスできるし。いまは、チェリーとか3月9日を練習しています。十八番は島ん人ぬ宝です。いずれ沖縄に移住したときに、ごあいさつで弾けます。これでご近所ウケは完璧でしょう。
 
朝早く起きすぎたので、昼前に昼寝。昼前に昼寝ってアリなの? そう、その背徳感にゾクゾクするのです。昼ごはんのときに起こされました。昼ごはんは、おいしいかおいしくないか微妙なラインのステーキが出てきました。でも、ステーキというとご馳走という扱いだから、おいしいおいしい! と言って食べました。食べ物の評価はいつもそんな感じです。基本、おいしいと言っておきます。ポン酢入れたらたいていのものは食べられると考えています。
 
そのあとは、卒論のためのお勉強。本をひたすら読みます。集めた論文は未だ手をつけられていないので、いささかやばいかもしれません。あはは。そういえば、大学にない資料を入手するために、青学に紹介依頼を申し込んだのですが、ネットを介してだとダメと言われました。噂の青学に入ってみたいなあ。絶対浮くだろうけど! なぜ青学かと言うと、月末に東京行くし、渋谷だから青学近いし合法的に侵入できるなら空気を感じてみるか、と思ったんですよ。書いてみたらすこしキモかったのでこの話はもうやめます。はい。
 
勉強はすぐに飽き、頭もすこし痛かったので本日2回目の昼寝。すばらしい日だな、と思いながら眠りにつきました。妹の「お姉ちゃん、スクワットってなにー!?」で起こされました。妹、寝ている人への遠慮という概念がまだありません。腹が立ったので、「なにそれ知らん!!」と返しました。
 
さて、そろそろ飽きたので、以下略とさせていただきます。みなさんも、面白記事とか役に立つ記事ではなく、たまにはふつうの日記を書いてください。気になります。
 
それでは、おやすみなさい。
 

モノの飽食が引き起こしたこと ~芸術からミニマリズムまで~

 

おしながき

文化・芸術と資本主義の関係

芸術はいつ反体制と結びついたのか?

文化が商業領域に飲み込まれる

ミニマリズムの流れはどこから来たのか?

何がミニマリズムブームを引き起こしたのか?

なぜミニマリストは積極的に自らのミニマルな生活を発信する?

予告(ノームコア、人間関係の商品化)

 

文化・芸術と資本主義の関係

  最近読んでいる本、『エイジ・オブ・アクセス』に、文化・芸術と資本主義の関係について興味深い記述があった。

 この本では、資本主義の主体がモノからコト(サービス)に、工業化資本主義から文化資本主義、財産所有からサービスへのアクセス権に移り変わっていると述べ、その背景について考察をしている。

エイジ・オブ・アクセス―アクセスの時代

エイジ・オブ・アクセス―アクセスの時代

 

 

 ダニエル・ベルは現代文明を「経済」「政治」「文化」の三つの異なる領域に分け、それが相互に影響し合うと考えた。

それぞれの基本原則

経済:資源を経済的に利用すること

政治:参加すること

文化:自己の充実と向上

 過去100年間、政治・文化領域の価値は商品化の一途をたどり、経済領域に吸収されてしまった。(中略)だが1900年代前半まで、消費には否定的な意味合いしかなかったことを思い起こさなければならない。

「文化」はしばらくのあいだ物質重視の価値観が強くなることに危機感を唱えていた批評家たちの避難所になった。最初ロマン派が、次に自由奔放なボヘミアンが加わって、自然の中や自己の充足を求め、非物質的主義路線で進歩を達成しようと試みた。「人はパンのみに生くるにあらず」が彼らの信条だった。

 

芸術はいつから反体制と結びついたのか?

 フジロックの一連の騒動においては、知識人らは「芸術なんてそもそもが反体制なんだよ」と主張していたが、そのそもそもとは一体いつからなのだろうか?

フジロック騒動から、音楽と政治を社会学的に考えてみた - とある女子大生の迷走日記

 

 芸術が反体制的な価値観と結びつけて見られるようになったのは、18世紀から19世紀のロマン派の時代だ。当時の芸術家は、啓蒙主義哲学と工業化市場の重圧により抑圧されていた感情や願望を表現した。効率・用途・客観性・無関心を原則に組織化し、物質的な価値と財産の蓄積にとらわれた世界の中で、芸術家たちは人間関係のもう一つの側面、工業化社会に生きる制約を押し破って出ようとする内面を伝達した。

 

 産業革命が起こり、農民は工場労働者になり、機械の前で効率化された働き方を求められた。大量生産の規格品をただただマニュアル通りに作ればいい。そんな中、「人間ってこんなだっけ?もっと人間らしくのびのび生きたい」というのがロマン派の運動だ。

自由奔放と悦楽の表現を通し、 人々を作業台や機会に無理やりつなげた退屈なピューリタン的生き様からの解放を表現した。

 

 しかし、近代的な無機質な資本主義に異を唱えた反体制の芸術は、皮肉なことに逆に資本主義にうまく取り込まれてしまう。 

 

運命のいたずらと言うのだろうか、彼らの感性は当時支配的だった資本主義体制の糾弾を目指したにもかかわらず、生産から消費へと様態を変える苦しみの真っ只中にある経済にとって理想的な刺激となった。

 

 生産から消費へと様態を変える苦しみの真っ只中にある経済とはどういうことなのか。産業革命の中、機械化による大量生産が実現し、モノの充足は急速に進んだ。似たり寄ったりの規格品では、もはや消費のレベルが上がった人々の心をつかむことはできなくなったのだ。そこで、新しい資本主義へと移行する必要があった。

 

旧来の生産思考の資本主義が創造性や自己充足、快楽、遊びなどの欲求を抑圧したとすれば、新しい消費者志向の資本主義は、芸術を利用して巨大な消費者文化を創ることで、鬱積した心理的欲求を解放しようとする。消費者志向の新たな市場は「文化領域」、つまり芸術コミュニティの共有価値の主要な伝達手段だった領域から芸術を取り出して市場へと移し、芸術は広告会社とマーケティングコンサルタントの人質となって「生き様」を売るのに使われることとなった。

 

文化が商業領域に飲み込まれる

  ダンスや演劇、儀式、音楽、美術などの芸術は古代から人間経験のエネルギッシュな側面として不可欠なものだった。近代になり、そういった文化は上のような背景で商業世界へと取り込まれることになるのだ

 もちろん、中世においても文化や芸術は親しまれた。しかし、それらはもっぱら貴族や大商人など特権階級のためのものであった。財力あるものは、芸術家たちのパトロンとなった。彼らは、商売道具としてではなく自ら楽しんだりステータスを示したりするのに芸術にお金をかけていた。

 近代になり、メディアの幅は大きく広がった。映画やラジオ、雑誌が大衆にも親しまれるようになる。産業革命により、中産階級も徐々に増える。労働者たちは、娯楽を求めた。大衆に効率よく娯楽を提供するエージェンシー(映画配給会社、テレビ・ラジオ局)が出てくることになる。

 

 1930年代にドイツの社会学テオドール・アドルノとマックス・ホークハイマーが「文化産業」と名付けたもの、これが今世界経済で最も急速に発展を遂げている分野だ。映画・ラジオ・テレビ・レコード業界・世界旅行・ショッピングモール・テーマパーク・ファッション・サイバー空間の疑似世界・・・(以下略)

(『エイジ・オブ・アクセス』からの引用は以上)

 

ミニマリズムの流れはどこから来たのか?

  最近ミニマリズムや断捨離が世間を賑わせているが、モノの飽食は今に始まったことではなかったのだ。

 

断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、

  • 断:入ってくるいらない物を断つ。
  • 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
  • 離:物への執着から離れる。

として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。ヨーガの行法が元になっている為、単なる片付けとは一線を引く。

 

 断捨離 - Wikipedia

 

↓一昨年から昨年は、本屋に行くといつも平積みにされていたような気がする

フランス人は10着しか服を持たない~パリで学んだ“暮らしの質

フランス人は10着しか服を持たない~パリで学んだ“暮らしの質"を高める秘訣~

 

 

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なにがミニマリズムブームを引き起こしたのか?

 

考えられる要因を挙げていく。

 

(1) リーマンショック・不景気・震災

ミニマリストの定義と歴史を、冷静に調べてみた - 一橋を出てニートになりました

 この記事によれば、2009年にアメリカのミニマリストのユニット、The Minimalistsを発端に海外で広がりを見せ始め、日本では2011年10月からじわじわと浸透し、2013年に一気に広まったということである。東日本大震災ミニマリズムのきっかけになったのかははっきりとはわからないが、時期的には浸透し始めたのと近い。震災のショック(何が本当に意味があることなのか?という問い)や、震災後の景気の落ち込みが影響しているのかもしれない。

 

logmi.jp

 The Minimalistsは、2008年のリーマンショックをきっかけにたくさん稼いでたくさん消費する生活を見直したというふうに語っている。他の有名な海外のミニマリストも、リーマンショックがきっかけとなった人はいるようだ。

 " 不景気 → べ、別にモノなんかほしくないもんね!わたしはミニマリストなんだから!" というような構図があると思われる。欲しいのに手に入れられない、と思うよりも欲しくないからいらない、と思うほうが幸せである。

 

 不景気の煽りを受けてもともとお金のない若者が、モノを持てない潜在的な不満感をミニマリストという思想によって代替するのも無理は無い気がする。
身も蓋もない書き方をすれば【欲しいものが買えない→モノを持たない身軽な生活】とすり替えているにすぎない。
貧乏が故に欲しいものが買えない苦しさを、ミニマリストという言葉で慰めているように見える。

 ミニマリストっていうのは簡素清貧ってことでいいかな? - ネットの海の渚にて

 

 

(2)スマホの登場・普及

 スティーブ・ジョブズミニマリストであったことは、象徴的だ。

 スマホ一つで、今やありとあらゆることができる。仕事も娯楽も可能だ。多くの人がいつでもどこでもネット接続されているデバイスを携帯するといいうのは、大きな転換点になったのではないかと思う。

 今や高級品や車、住宅、ファッションなどで自らをブランディングしなくても、SNSでの発信によって自らの考え方を、それに伴う反応(いいね!、リプライ/コメント、フォロワー数、読者数など)によって自分に向けられた社会的な信頼を直接示すことができるようになった。まどろっこしい方法で自己を演出する必要がなくなったのだ。

 

(3)昨今の禅や仏教思想ブーム

 フランスのミニマリストであるドミニック・ローホーは禅庭との出会いがきっかけとなったらしい。

 ドミニック・ローホーさんは、30年間、日本の仏教大学で教鞭をとりながら、ヨガを学んだり、禅寺にこもって曹洞禅を学んだり、墨絵は10年学んだそうです。レオ・バボータさんと同様、禅や東洋思想から影響を受けているんですね。

 現代人が学びたい海外のミニマリスト / カリスマ10人 - アーキペラゴを探して

 

クイズ これ、何と読むでしょうか?

 

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知っている方もいらっしゃるだろうが

正解は・・・

 

真ん中の口を周りの漢字に組み込んで読むと、

「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」

 

 いつまでももっともっと、と物を欲しがるのではなく、今持っている物に満足しなさい、という禅の考え方だ。枯山水で有名な京都の龍安寺に、この「知足」のつくばいがある。

 

 

 仏教においても物欲や性欲などのあらゆる欲は煩悩だとして、俗世的なものと考えられている。

 このように、ミニマリズムと禅の思想や仏教と親和的であることは確かだろう。わび・さび、質素、粋などが美徳とされていた歴史的背景も、日本でミニマリズムが広がっている要因の一つかもしれない。

(粋という価値観は、というのは贅沢禁止令の中で、一目ではわからない着物の細かい文様や裏地へのこだわりがさかんになった背景がある、と言われている)

 

なぜミニマリストは積極的に自らのミニマルな生活を発信する?

 

 疑問に思うのはなぜミニマリストが自らがいかに/どのようにミニマリズムを実践していることを積極的にネット上で発信しているのか、ということだ。はてなブログにおいても、ミニマリストのブログは多いし、いろいろと話題になっている。

 

 しかし興味深いことに、ミニマリストの方の中には、手放すものや、それで得られたすっきりした空間についてブログに書く人がいる。
 ブログやSNSでは、どちらかというと買ったもの、自分が手に入れたことやもの……その他欲望を喚起する事柄について書く人の方が目立っていたように思う、これまでは。
 だからわざわざ捨てるものを人に見せるというのには、ちょっとした違和感があった。

 【追記あり】ミニマリストについて思うこと - イグアナガール

 

 「こんなにたくさんモノを捨てた」「自分の部屋はこんなにモノが少ない」「引越しはたったの15分で終わる」「こんなにシンプルなものしか買わない」というような発信は、どのような心理なのだろうか。

 

 少し考えてみたところ、ミニマリズムはある種の宗教や信仰のようなものではないか、という結論に至った。禅や仏教がそうであるように。自分はそのような方法で幸せになっているので、ほかの人にも広めたい、という気持ちなのだろうか。モノおよび物欲という煩悩にまみれた人々に、ぜひミニマリズムを、ということなのかもしれない。

 

 あるいはミニマリスト」という記号を欲しているのかもしれない。自分はもはやモノにあくせくしているのではなく、精神的に豊かな次の段階に来ているということを示したい、とか。(ミニマリストの方のブログをたくさん観察しているわけではないので、あまり多くは言えないが)

 

その他の疑問点

ミニマリストの発信を追っているのは、どのような人なのだろうか。すでにミニマリストなのか、ミニマリストの卵なのか、単なる興味や冷やかしなのか。

ミニマリストでなく、これからもなる予定もない人が見ている場合もあると思われるが、そういった人はどういった気持ちで見ているのか。

 

何かご意見、情報があればコメントやDMを残してくださるとうれしいです。

注:決してミニマリストの方への侮辱の意はなく、単にミニマリズムの流行という現象の背景を探りたいと考えています。中立的な価値観でこれを書いています。


予告

 



 ノームコアや、人間関係の商品化(レンタル友達/彼女/彼氏/おじさん、パパ活などにも関心があるので、煮詰まり次第ブログに書く予定。