ふつうの日記
モノの飽食が引き起こしたこと ~芸術からミニマリズムまで~
おしながき
文化・芸術と資本主義の関係
芸術はいつ反体制と結びついたのか?
文化が商業領域に飲み込まれる
ミニマリズムの流れはどこから来たのか?
何がミニマリズムブームを引き起こしたのか?
なぜミニマリストは積極的に自らのミニマルな生活を発信する?
予告(ノームコア、人間関係の商品化)
文化・芸術と資本主義の関係
最近読んでいる本、『エイジ・オブ・アクセス』に、文化・芸術と資本主義の関係について興味深い記述があった。
この本では、資本主義の主体がモノからコト(サービス)に、工業化資本主義から文化資本主義、財産所有からサービスへのアクセス権に移り変わっていると述べ、その背景について考察をしている。
ダニエル・ベルは現代文明を「経済」「政治」「文化」の三つの異なる領域に分け、それが相互に影響し合うと考えた。
それぞれの基本原則
経済:資源を経済的に利用すること
政治:参加すること
文化:自己の充実と向上
過去100年間、政治・文化領域の価値は商品化の一途をたどり、経済領域に吸収されてしまった。(中略)だが1900年代前半まで、消費には否定的な意味合いしかなかったことを思い起こさなければならない。
「文化」はしばらくのあいだ物質重視の価値観が強くなることに危機感を唱えていた批評家たちの避難所になった。最初ロマン派が、次に自由奔放なボヘミアンが加わって、自然の中や自己の充足を求め、非物質的主義路線で進歩を達成しようと試みた。「人はパンのみに生くるにあらず」が彼らの信条だった。
芸術はいつから反体制と結びついたのか?
フジロックの一連の騒動においては、知識人らは「芸術なんてそもそもが反体制なんだよ」と主張していたが、そのそもそもとは一体いつからなのだろうか?
フジロック騒動から、音楽と政治を社会学的に考えてみた - とある女子大生の迷走日記
芸術が反体制的な価値観と結びつけて見られるようになったのは、18世紀から19世紀のロマン派の時代だ。当時の芸術家は、啓蒙主義哲学と工業化市場の重圧により抑圧されていた感情や願望を表現した。効率・用途・客観性・無関心を原則に組織化し、物質的な価値と財産の蓄積にとらわれた世界の中で、芸術家たちは人間関係のもう一つの側面、工業化社会に生きる制約を押し破って出ようとする内面を伝達した。
産業革命が起こり、農民は工場労働者になり、機械の前で効率化された働き方を求められた。大量生産の規格品をただただマニュアル通りに作ればいい。そんな中、「人間ってこんなだっけ?もっと人間らしくのびのび生きたい」というのがロマン派の運動だ。
自由奔放と悦楽の表現を通し、 人々を作業台や機会に無理やりつなげた退屈なピューリタン的生き様からの解放を表現した。
しかし、近代的な無機質な資本主義に異を唱えた反体制の芸術は、皮肉なことに逆に資本主義にうまく取り込まれてしまう。
運命のいたずらと言うのだろうか、彼らの感性は当時支配的だった資本主義体制の糾弾を目指したにもかかわらず、生産から消費へと様態を変える苦しみの真っ只中にある経済にとって理想的な刺激となった。
生産から消費へと様態を変える苦しみの真っ只中にある経済とはどういうことなのか。産業革命の中、機械化による大量生産が実現し、モノの充足は急速に進んだ。似たり寄ったりの規格品では、もはや消費のレベルが上がった人々の心をつかむことはできなくなったのだ。そこで、新しい資本主義へと移行する必要があった。
旧来の生産思考の資本主義が創造性や自己充足、快楽、遊びなどの欲求を抑圧したとすれば、新しい消費者志向の資本主義は、芸術を利用して巨大な消費者文化を創ることで、鬱積した心理的欲求を解放しようとする。消費者志向の新たな市場は「文化領域」、つまり芸術コミュニティの共有価値の主要な伝達手段だった領域から芸術を取り出して市場へと移し、芸術は広告会社とマーケティングコンサルタントの人質となって「生き様」を売るのに使われることとなった。
文化が商業領域に飲み込まれる
ダンスや演劇、儀式、音楽、美術などの芸術は古代から人間経験のエネルギッシュな側面として不可欠なものだった。近代になり、そういった文化は上のような背景で商業世界へと取り込まれることになるのだ。
もちろん、中世においても文化や芸術は親しまれた。しかし、それらはもっぱら貴族や大商人など特権階級のためのものであった。財力あるものは、芸術家たちのパトロンとなった。彼らは、商売道具としてではなく自ら楽しんだりステータスを示したりするのに芸術にお金をかけていた。
近代になり、メディアの幅は大きく広がった。映画やラジオ、雑誌が大衆にも親しまれるようになる。産業革命により、中産階級も徐々に増える。労働者たちは、娯楽を求めた。大衆に効率よく娯楽を提供するエージェンシー(映画配給会社、テレビ・ラジオ局)が出てくることになる。
1930年代にドイツの社会学者テオドール・アドルノとマックス・ホークハイマーが「文化産業」と名付けたもの、これが今世界経済で最も急速に発展を遂げている分野だ。映画・ラジオ・テレビ・レコード業界・世界旅行・ショッピングモール・テーマパーク・ファッション・サイバー空間の疑似世界・・・(以下略)
(『エイジ・オブ・アクセス』からの引用は以上)
ミニマリズムの流れはどこから来たのか?
最近ミニマリズムや断捨離が世間を賑わせているが、モノの飽食は今に始まったことではなかったのだ。
断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、
- 断:入ってくるいらない物を断つ。
- 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
- 離:物への執着から離れる。
として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。ヨーガの行法が元になっている為、単なる片付けとは一線を引く。
↓一昨年から昨年は、本屋に行くといつも平積みにされていたような気がする
フランス人は10着しか服を持たない~パリで学んだ“暮らしの質"を高める秘訣~
- 作者: ジェニファー・L・スコット,神崎朗子
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2014/10/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (24件) を見る
なんで震災をきっかけに所有を見直すのか気になる。 「拒物症」という表現は面白い。病的なまでにモノを持ちたくない、そのような生活状況をSNSなどで積極的に上げる心理とはなんなのか。 / “「日本人はミニマリスト」こんまりブームでイ…” https://t.co/aEaGVIuzD4
— ぱんの (@lunleee) 2016年6月21日
なにがミニマリズムブームを引き起こしたのか?
考えられる要因を挙げていく。
(1) リーマンショック・不景気・震災
ミニマリストの定義と歴史を、冷静に調べてみた - 一橋を出てニートになりました
この記事によれば、2009年にアメリカのミニマリストのユニット、The Minimalistsを発端に海外で広がりを見せ始め、日本では2011年10月からじわじわと浸透し、2013年に一気に広まったということである。東日本大震災がミニマリズムのきっかけになったのかははっきりとはわからないが、時期的には浸透し始めたのと近い。震災のショック(何が本当に意味があることなのか?という問い)や、震災後の景気の落ち込みが影響しているのかもしれない。
The Minimalistsは、2008年のリーマンショックをきっかけにたくさん稼いでたくさん消費する生活を見直したというふうに語っている。他の有名な海外のミニマリストも、リーマンショックがきっかけとなった人はいるようだ。
" 不景気 → べ、別にモノなんかほしくないもんね!わたしはミニマリストなんだから!" というような構図があると思われる。欲しいのに手に入れられない、と思うよりも欲しくないからいらない、と思うほうが幸せである。
不景気の煽りを受けてもともとお金のない若者が、モノを持てない潜在的な不満感をミニマリストという思想によって代替するのも無理は無い気がする。
身も蓋もない書き方をすれば【欲しいものが買えない→モノを持たない身軽な生活】とすり替えているにすぎない。
貧乏が故に欲しいものが買えない苦しさを、ミニマリストという言葉で慰めているように見える。
ミニマリストっていうのは簡素清貧ってことでいいかな? - ネットの海の渚にて
(2)スマホの登場・普及
スティーブ・ジョブズがミニマリストであったことは、象徴的だ。
スマホ一つで、今やありとあらゆることができる。仕事も娯楽も可能だ。多くの人がいつでもどこでもネット接続されているデバイスを携帯するといいうのは、大きな転換点になったのではないかと思う。
今や高級品や車、住宅、ファッションなどで自らをブランディングしなくても、SNSでの発信によって自らの考え方を、それに伴う反応(いいね!、リプライ/コメント、フォロワー数、読者数など)によって自分に向けられた社会的な信頼を直接示すことができるようになった。まどろっこしい方法で自己を演出する必要がなくなったのだ。
(3)昨今の禅や仏教思想ブーム
フランスのミニマリストであるドミニック・ローホーは禅庭との出会いがきっかけとなったらしい。
ドミニック・ローホーさんは、30年間、日本の仏教大学で教鞭をとりながら、ヨガを学んだり、禅寺にこもって曹洞禅を学んだり、墨絵は10年学んだそうです。レオ・バボータさんと同様、禅や東洋思想から影響を受けているんですね。
現代人が学びたい海外のミニマリスト / カリスマ10人 - アーキペラゴを探して
クイズ これ、何と読むでしょうか?
知っている方もいらっしゃるだろうが
正解は・・・
真ん中の口を周りの漢字に組み込んで読むと、
「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」
いつまでももっともっと、と物を欲しがるのではなく、今持っている物に満足しなさい、という禅の考え方だ。枯山水で有名な京都の龍安寺に、この「知足」のつくばいがある。
仏教においても物欲や性欲などのあらゆる欲は煩悩だとして、俗世的なものと考えられている。
このように、ミニマリズムと禅の思想や仏教と親和的であることは確かだろう。わび・さび、質素、粋などが美徳とされていた歴史的背景も、日本でミニマリズムが広がっている要因の一つかもしれない。
(粋という価値観は、というのは贅沢禁止令の中で、一目ではわからない着物の細かい文様や裏地へのこだわりがさかんになった背景がある、と言われている)
なぜミニマリストは積極的に自らのミニマルな生活を発信する?
疑問に思うのはなぜミニマリストが自らがいかに/どのようにミニマリズムを実践していることを積極的にネット上で発信しているのか、ということだ。はてなブログにおいても、ミニマリストのブログは多いし、いろいろと話題になっている。
しかし興味深いことに、ミニマリストの方の中には、手放すものや、それで得られたすっきりした空間についてブログに書く人がいる。
ブログやSNSでは、どちらかというと買ったもの、自分が手に入れたことやもの……その他欲望を喚起する事柄について書く人の方が目立っていたように思う、これまでは。
だからわざわざ捨てるものを人に見せるというのには、ちょっとした違和感があった。
【追記あり】ミニマリストについて思うこと - イグアナガール
「こんなにたくさんモノを捨てた」「自分の部屋はこんなにモノが少ない」「引越しはたったの15分で終わる」「こんなにシンプルなものしか買わない」というような発信は、どのような心理なのだろうか。
少し考えてみたところ、ミニマリズムはある種の宗教や信仰のようなものではないか、という結論に至った。禅や仏教がそうであるように。自分はそのような方法で幸せになっているので、ほかの人にも広めたい、という気持ちなのだろうか。モノおよび物欲という煩悩にまみれた人々に、ぜひミニマリズムを、ということなのかもしれない。
あるいは「ミニマリスト」という記号を欲しているのかもしれない。自分はもはやモノにあくせくしているのではなく、精神的に豊かな次の段階に来ているということを示したい、とか。(ミニマリストの方のブログをたくさん観察しているわけではないので、あまり多くは言えないが)
その他の疑問点
・ミニマリストの発信を追っているのは、どのような人なのだろうか。すでにミニマリストなのか、ミニマリストの卵なのか、単なる興味や冷やかしなのか。
・ミニマリストでなく、これからもなる予定もない人が見ている場合もあると思われるが、そういった人はどういった気持ちで見ているのか。
何かご意見、情報があればコメントやDMを残してくださるとうれしいです。
注:決してミニマリストの方への侮辱の意はなく、単にミニマリズムの流行という現象の背景を探りたいと考えています。中立的な価値観でこれを書いています。
予告
ユニクロや無印良品のような均一化された商品を扱う勢力が大きくなったので、モノへの愛着が無意味になった、と書いてあるけど、ミニマリストってそういうノームコアっぽいブランド好きだよね— ぱんの (@lunleee) 2016年6月21日
生活や人間関係のあらゆることが商業化された経済の被害者とも言える / 他173コメント https://t.co/6GcZPlb2kJ “水商売慣れし過ぎた俺の婚活” https://t.co/8PxIJ1ZPEz— ぱんの (@lunleee) 2016年6月22日
ノームコアや、人間関係の商品化(レンタル友達/彼女/彼氏/おじさん、パパ活)などにも関心があるので、煮詰まり次第ブログに書く予定。
(続)フジロック騒動から、音楽と政治を社会学的に考えてみた
前のエントリーへの反応や、関連記事を読んで考えたことを、改めてまとめてみたいと思う。
わたしは、音楽そのものに政治を持ち込むのか、音楽イベントに政治を持ち込むのか、というところを明確に分けずに考えてしまっていた。
音楽に政治を持ち込む、といってもそのやり方はいろいろある。
①音楽の形式を用いて強い思想をこめる(→後述する)
②歌詞で政治的な主張をする(比喩含め)
③ステージでMCなどの際にアーティストが政治について語る(前回のエントリーの【追記】)
④音楽イベントでアーティストではない活動家が政治について語る場を用意する(フジロックの場合はこれ)
フジロックに政治色を持ち込むな、と主張している人は、音楽そのものに政治的思想を持ち込むな、と言っているのではなく、音楽イベントに音楽やらない人は来るな、という意味合いで言っている人が多いのだと思う。
#音楽に政治を持ち込むなよ
— 脱税レイヤー風呂屋さん (@557dg4) 2016年6月20日
これを言ってる方って、音楽に政治的意味合いを込める事じゃなく、
この騒動の(政治的)演出性ないしキナ臭さに反感を持ってるんだよね?
だから
「当職は有識者だ、お前らとは違う。音楽とは…」
的なお前は無知だから黙ってろ!理論で鎮火出来るもんじゃないかと
音楽そのものに思想をこめる、とはどういうことか
これをわかりやすく説明している一連のツイートがある。
エルヴィス・プレスリーがロックンロールを電波にのせて全米に届けた時、若者たちはもちろん、彼らの親の世代にも「これは音楽のポルノだ。本質的に不道徳な音楽だ」ということが直感できた。そしてそのロックンロールという形式が持つ力、音楽のポルノグラフィとしての力は未だに死んでないと思う
— cdb (@C4Dbeginner) 2016年6月20日
ロックンロールという形式が、“不道徳” を直感させた、ということらしい。
たしかに、音楽の雰囲気や空気感で、そのミュージシャン(あるいは音楽の作り手)がどういう姿勢で生きているのかをなんとなく感じ取ることがある気がする。
極端かもしれないが、この世の中を賛美しているのか、呪詛しているのかくらいは、音楽から伝わってくるものだろう。
フジロックのアトミックカフェ、てっきり津田大介氏が一通りトーク回したらサマースーツの袖をまくった田原総一郎がバックバンドに「君たち『監獄ロック』できる?できないのどっち?社民党には聞いてないんだよ!」的感じで毎年一曲歌うもんだと思ったら一切歌わないらしいんですよね。歌えよっていう
— cdb (@C4Dbeginner) 2016年6月21日
「音楽イベントで政治を語るなら、歌わないと」という主張は個人的には納得できる。
イデオロギーの乗り物としての音楽
「“音楽に政治を持ち込むな” っていうのなら、国歌もダメだな」という類の発言がネット上で散見されたが、これは「音楽そのものに政治を持ち込むな」という主張に対する批判としてなら有効かもしれないが、「音楽イベントに音楽やらない政治活動家を呼ぶな」という主張に対しては何の効果もない。
イデオロギーをのせるツールとしての音楽には、国歌や軍歌、戦時中のプロパガンダ歌謡、讃美歌をはじめとした宗教歌などが挙げられるだろう。民族音楽をとっても、国や民族、自らの信仰を讃える内容のものは多い。わたしが民族音楽に比較的親しんできた実感としては、東欧やイスラエルなど外的な圧力を強く受けた国家ほど、そういった内容の歌が多い気がする。言えないことを言ったり、わかりやすい形で考えを共有したりするのに、音楽はとても有効だ。
芸術は人間を表現する最も高度な媒体だ。文化の深奥にある意味を伝達すべく研ぎ澄まされている。社会経験を整理し、政治・経済型のコミューンでは届かない人間精神の深奥部に達する媒介役を果たしてくれる。ロックミュージックや新しい芸術、舞踊などが一九六〇年代・七〇年代のベビーブーム世代の時代精神にどれほど永続的な影響を与えたかを見れば、芸術に備わった「社会的な意味」の伝達パワーと、「共有の価値観」を創出するパワーが理解できる。
『エイジ・オブ・アクセス』(ジェレミー・リフキン)より
友人はこう言っていた。
音楽は媒体である。音という物理的エネルギー、力を持った媒体である。それが、どのような意味を持たせるか、誰から誰に伝えられるかによって、力を削がれもするし、増されもする。
その主張はこのツイートにも通じるものがある。
ロックは右にも左にもなりうるし、政治的に正しくも悪くもなりうる。それは「性は正しいか、それとも悪いか」とか「生命は善か悪か」と問うようなものだと思う。
— cdb (@C4Dbeginner) 2016年6月20日
気になった記事
要約すると、投票など政治的に正規なルートでは自分たちの主張が届かない際に、市民権を獲得していない主体(特定の人種、性、価値観など)が、政治的主張に音楽を用いるのはアリだが、日本において自民党か非自民党という政党レベルの議論で「政治色」を持ち出すのはナシ、スケールが違いすぎる、全くお話にならん、という話だ。
投票という正規のルート以外で政治的主張をする、という現象は何を意味するのか
民主主義国家なのだから、投票で変えられるものは、投票で変えればいい。それで変えられそうになかったら別の手段に出るしかない。わかりやすいのはデモ。デモが抑えつけられるのであれば、音楽や小説、映画、漫画、絵画などに、ぼやかした形で主張をのせるしかないだろう。
昨年は、国会前デモが盛り上がった。フジロックに出演するというSEALDsの奥田愛基氏を一躍有名にしたデモだ。そもそも、民主主義国家で投票によらない政治的活動をするとは、どういうことなのか。なぜ、デモという手段に出なければならないのか。
デモをさせる社会的な構造がある
アメリカでは、規模のわりにデモが少ないらしい。それはなぜなのか。デモを引き起こす国と、あまり引き起こさない国では、どのような構造の違いがあるのか。雑誌『広告』5月号では、社会学者の橋爪大三郎氏が以下のように述べている。重要だと思った箇所をいくつか抜粋する。(太字は後付け)
(規模のわりにデモが少ない背景は)アメリカでは民主主義への信頼があついから。政治的意思を投票によって表明する。選挙で選ばれた人びとが法律を制定する。法律の不備は最高裁判所が是正する。こういうルールがあります。このルールに対する信頼があつい。
民主主義は多数派が権力を握り、法律を制定する。法律を制定するのが、社会を変える一番の早道。そこに集中するべきである、というのがアメリカの民主主義なのです。なのでデモは、二次的、三次的な政治活動の手法になる。デモに訴えなくても、各人の意見が反映されるルートがあるという、民主主義への信頼があるのです。
では日本の場合、どうしてデモを起こす人びとに革新勢力が多かったのか。それは自民党が長期にわたり政権与党になっていたという背景がある。政府提案の法案が与党の賛成で法律になり、野党が提案した法案が法律になる可能性はほぼゼロ。なので、院外闘争というかたちで、国会の外から圧力をかけることになる。
日本は構造的に、民主政治のパイプが詰まっているのではないか。「何回選挙をやっても自分の意見はどうせ反映されないんだ」と思えば、パイプが閉じられているみたいな感覚になるのは当然でしょう。
日本ではデモができる。音楽イベントで政治的主張をしても何ら違法ではない。出演者と参加者の合意形成ができていればそれでよい。(フジロックはここで紛糾しているが)
「投票というルートがあるにもかかわらず、ほかの手段に出るなんてダメだ!そこまでかわいそうじゃないのに音楽に持ち込むな!」(かわいそうの程度は誰が判断するのだろう?)という主張は、肯定できない。
言論の自由、集会・結社の自由が基本権として保障されている日本では、どのようなルートで自らの主張をするのかは、その人の自由であるし、そのルートによって善悪が判断されるべきではない。(ルートによって効果的かどうかは異なるだろうが)
また、デモや音楽イベントで政治的な主張がなされる日本の政治的な構造に目を向けなければならない。
どんな現象にも、その背景となる構造がある、というのが社会学の考え方だ。
すこし話がずれてしまった感は否めないが、まとめる。
まとめ
・音楽に政治を持ち込むのか、音楽イベントに政治を持ち込むのか、は分けて考える必要がある。
・音楽の形式そのものに思想的なパワーが内在しうる。それを聴き手は直感として感じ取れる。
・音楽にイデオロギーが込められることに善悪はなく、そのイデオロギーの内実による。
・日本においては、投票という正規の政治的な意思表明ルートが行き詰まっている構造がある。
前編はこちら↓