ナラタージュ 

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「もういいやって思えてきてん」

一度も好きな人ができたことがなかった友人は、社会人になり、好きな人ができたらしい。職場の先輩だという。月に一度くらい彼女と会うのだが、その度に進捗を報告してくれる。

冒頭は、おとといの彼女の言葉。

「もう脈なしかもしれん。ラインを送っても一日中その返事を気にしてしまうのが疲れるねん」

わかるわかる、と私は相槌を打った。好きな人からの返事を待つのは、この上なくそわそわしてしまい、いつiPhoneの画面が光るのか、つい視界の端でもチラチラと確認してしまう。そして、そのうち待ちくたびれると、光っていないのに光っているかのような錯覚すら起こしてしまうこともあり、そんな自分にまた嫌気が差すのだった。

 

あまり手応えもないのに、好きな人にアプローチをするのは、本当に疲れるしじわじわと失恋をしているような気持ちになる。自分にも同じような経験があったことを伝えた。自分だけ暴走しているのが気持ち悪いし、恋い焦がれることに単純に疲れる。

「そんな経験あるんや、みんなおんなじなんやな」

と彼女の表情は少しだけゆるんだ。

「でもさ、好きな人ができるだけでいいと思うよ」と言うと、彼女は仏頂面でこう返した。

「いいことなんかない。しんどい」

「それはそうやけど。んー、“いい”っていうか、価値があるとは思う。

 だってさ、そこまで好きな人に出会えるっていうこと自体があんまりないことやん?」

「確かに」

初めての恋をしている彼女は力強く頷いた。

「うん。今片思いの辛さを忘れかけてるから、綺麗事を言ってしまってるかもしれんけどさ」

と付け加えておいた。

 

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映画『ナラタージュ』を観た。

(ネタバレが嫌な人は読まない方がいいかもしれないです)

改めて、「恋する」ことのハードルの高さを実感した。

奈良時代では、「恋ひ」は受け身だったという。相手を求めるのではなく、相手に惹かれる。身も心も焦がれてしまうもの、それが恋だった。

たとえ、相手が精神的な支柱であり、人間として魅力があると感じていても、さらにはその相手と身体的な関係も持っていても、その人に恋するとは限らないのだ。

 

泉が葉山先生を好きになるのは必然に思えた。

恋愛もので、一番腹が立つのは好きになるきっかけが全くわからないまま、いつの間にか最初は憎たらしかった人を好きになっているというものだ。

人を好きになるのは、人間関係におけるバグみたいなのだ、というフレーズをどこかで聞いたことがあるけれど、そうは言っても物語の中では好きになるまでの描写をしていく必要があると思う。

話を戻すが、ナラタージュでは、泉の葉山先生に対する思いには必然性があった。自分が泉でも、葉山先生を好きになるだろうな、と納得できる。

一方で、葉山先生から泉への思いは、彼自身の口からも語られていたように、「恋じゃなかったと思う」。泉の存在と、泉から頼られること、向けられる感情は、葉山先生にとって生きていく上で必要だった。必要だったけれども、泉に恋はしなかった。

ではなぜ、卒業式のときにキスをしたのか? 

 

性行為に繋がるキスとそうではないキスとでは、全く重みが違うと思う。後者は、相手を想う気持ちがなければ生まれないものだ。

あんなふうにキスをされたら、自分のことを想ってくれていると感じても仕方がない。だから、いろんな人が論じているように葉山先生はずるいのだ。

泉が風邪のときに看病してくれる葉山先生に「なんでそんなに優しくするんですか、なんなんですか」という泉の台詞に全ての女性が共感したのではないだろうか。

ただ葉山先生にとっては泉は恋愛としての意味抜きで大事な存在だったのだろう。

 

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ナラタージュ』において、雨は重要な表現だ。

昔、恋人と一度だけ旅行に行ったことがある。湖のほとりの街だ。大雨が降っていて、狭い通りをスーツケースを引いて私たちは縦に並んで歩いた。前を歩く華奢な彼の身体と大きな黒い傘が不釣り合いだったことを覚えている。

その土地にゆかりのある人物の旧邸にわたしたちは行った。他に誰もいなかった。

「こんだけの雨のときによう来たね」と係の方が声をかけてくださった。

「京都から来ました」

彼の午前中だけの授業を待って、私たちは京都駅で待ち合わせをしたのだった。

縁側から、遠くまで眺めることができた。緑をたたえた山々に、雨が降り注いでいた。

 

七夕だったから、二人で短冊を書いた。彼は「もう一年」と書いた。

それは、一年記念の旅行だった。見た途端、私は危うく涙ぐんでしまうところだったけれど、なんとか微笑んでみせた。

 

それから三ヶ月ほど経って、わたしたちは別れることになった。

「もう一年」は叶わなかった。

 

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もうちゃんと人を好きになれる気がしない、と私は思ったけれど、

そのあとに一人片思いをした。その人は、とても色気がある人で、これまで出会ったことがないタイプの男だった。

あれは、たしかに恋だった。

冒頭の、「自分だけが暴走してしまうのが辛い」というのがこの彼だった。寝ても覚めても彼のことを思ってしまう時期があった。

誘って、二人で会った。彼は、まったくわたしを女性として意識していないと思った。諦めようと思った。虚しかった。

 

しかし、半年後くらいに彼から誘ってきたことがあった。私は舞い上がり、普段買わないようなワンピースを買い、彼と待ち合わせをした。普段は被らない帽子を被って、彼は現れた。道がわからないかもしれないから、迎えに行きますよ、と言ってくれた。

好きだった。彼が自分にする行動の一つひとつが気がかりだった。どういう気持ちで話しかけて、または誘ってくれているのか。

卒業する前に、気持ちを打ち明けた手紙を何回も書いて、何回も破った。

 

そしてついには気持ちを打ち明けることもできず、終わってしまった。最後に別れのあいさつをするために、会う約束をとりつけたのにも関わらず、運悪く会うことができなかった。春の冷える日、寒々と流れる鴨川を眺めて、久しぶりの失恋を味わった。

 

あのとき誘ってくれなかったら、私は静かに静かにこの思いを閉じられたのに。

 

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もうちゃんと人を好きになれる気がしない。

私はもう一度思う。

そうやって思うほどに、彼らをちゃんと好きだったことを、

少しは誇りに思ってもいいのかもしれない。