銀座が歩行者天国になっていることには意味がある

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 友人と銀座に行った。友人にとっては、初めての銀座だった。歩行者天国になっていて、歩いていて気持ちがよかった。

 銀座が歩行者天国になっていることには意味があると思う。銀座は銀座であるがゆえに、人口密度のやたら高い渋谷のような街ではいけない。

 

 広い道路、広い川、客席と客席の間が広いレストラン。どれも、安心する。大学に通っていた頃、通学電車の車窓から見える幅の広い川を見逃すまいと、時折りちらちらと窓の外を見るようにしていた。広い川を見ると、それだけで気持ちが落ち着いた。大学生の頃は、はっきりとした悩みがなくても、いつもふわふわと落ち着かないような精神状態だった(この話はまたの機会に)。

 

 人と人の距離が近いと、どうも気になる。カフェやレストランで席の近いテーブルの会話が聞こえると、調子が狂う。聞こえているのに聞こえないふりをしないといけないし、他の人たちがおしゃべりしている中で自分たちが黙っていると、なんだか盛り上がっていないような気がしてしまって、気まずいような感じがする。

 

 そういえば、伊坂幸太郎の『グラスホッパー』という小説で、バッタの話が出てくる。バッタは、密集して育つと群集相というタイプになって、色は黒くなり、翅は長くなり、そして凶暴になる。どんな動物も、密集して暮らすとどこかおかしくなる、といった内容だ。

 ある登場人物は「これだけ個体と個体が接近して、生活するのは珍しいね。人間というのは、哺乳類じゃなくて、むしろ虫に近いんだよ」と言う。

 

 都会に住んでいると、否が応でも人と人との距離感が近くなり、パーソナルスペースを十分に確保できていないせいで、無意識のうちにストレスが溜まってしまい、それゆえ人に優しくできなくなる、といった話も、どこかで聞いたような気がする。

 

 都会と人の優しさの言説に関しては、いろいろと条件が複雑に絡んでいるので真偽を判定しにくいだろう。わたし個人(今年の春に大阪から上京してきた)の所感としては東京の人はやっぱり少し無愛想で、少し冷たいような気がした。それは、東京だからなのか、関東全体の話なのか、 はわからないし、別に大阪だって都会だから比較対象としても適切でないかもしれないけれど。

 ある日、服屋さんでジャケットを見ていたときのこと。色と生地の質感が気に入って、試着させてもらった。ただ、鏡で見ると少し肩幅が大きいような気がしていたので、しばし迷っていた。

「すみません、またあとで来て考えます」とわたしは店員に告げると、店員はこう言った。

「〇〇円でも買わないんだったら、やめた方がいいですよ」

その服は、定価から大きく値下がりしていたのだ。でも、わたしが気になっていたのは、別に値段の話ではない。イラっとした。追い討ちをかけるように、彼女はこう言葉を続けた。

「あなたが買わなくても、他の誰かが買ってくれますから」

さすがにカチンと来た。

「これから用事があるので、あとで来てゆっくり悩みたいんですよ」と言った。

するとどうだろうか、彼女は

「いやいや、無理しなくていいですよ」と半笑いでこちらも見ずにわたしが脱いだジャケットをハンガーにかけ、ラックに戻していた。

 こんなことってあるのだろうか。あなたは一体服を売る気があるのだろうか。お客様を神様とは言わないまでも、せめて気持ちよくコミュニケーションしようと思わないのだろうか。東京に来て間もないわたしは、この出来事に打ちのめされた。買い物をしていて、こんなに不快な思いをするのは初めてだった。

 まあ、このようなことがレアケースであることは十分に理解している。それでも、このように人の冷たさに打ちのめされるようなことは、ちょくちょくあった。

 東京って、やっぱりまだちょっと怖い。

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 銀座には、「ちゃんと」した装いのひとたちが他の街に比べて多かった。わかりやすく、ちゃんとしている。Aラインのしっかりした生地のワンピース、ブランドのロゴが入ったハンドバッグ、シルクの綺麗な色のスカーフ、つやつやとした優美な曲線のハイヒール。

 なんだか、こちらが恥ずかしくなってしまうほど、正統派の「ちゃんと」している。その包み隠さない「ハイソサエティ」の記号性にどぎまぎしてしまう。

 

 ……いや、なんでもかんでも「記号性」を持ち出すのはよくない。幾人もの「ちゃんとした」格好の人々とすれ違いながら、わたしはいつもの思考パターンを遮ろうと試みる。

 この人たちは単純にこういう格好が好きで自分に合っているから着ているのかもしれないし、行く先が銀座でなければ、全く違う装いをしているのかもしれない。銀座にふさわしい格好をしているというだけなのかも。ドレスコードだ。

 わたしだって、パーティーに行くときには着飾る。とすると、銀座に行くことはある種のパーティーなのかもしれない。あ、銀ブラ

銀ブラとは)銀座を特別な目的なしに、銀座という街の雰囲気を享楽するために散歩することを「銀ブラ」というようになったのは大正四年頃からで虎の門の「虎狩り」などと一緒に、都会生活に対して、特別警技な才能を持っている慶應義塾の学生たちから生れてきた言葉だ。

時代の中のパウリスタ|カフェーパウリスタとは|銀座カフェーパウリスタ より

  わたしたちだって、銀座に目的があったわけではない。友人は、「あのよくテレビによく出てくる銀座」を一目見たいだけだった。 特に何も買わず、何も食べず、文字通り私たちは銀座をぶらついて、帰路についたのだった。(せめて何か食べればよかったのかもしれない)

「この広い道路を歩くだけでも気持ちいいな」

「うん」

「帰るか」

「帰ろ」 

 しばらく、銀座には行かないだろう。