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自意識の芽生えとショーペンハウアーとチャップリン

小さい頃、自分の意識や感覚、感情を有しているのは自分だけなのだ、ということにある日急に気づいて、たじろいだ記憶がある。
誰もわたしの見たもの、聞いたもの、感じたものを完璧に共有することはできない。わたしの全てを知っているのは、わたししかいない。そして、わたしはわたしという肉体にしか乗ることはできず、他の誰でもない。
他の人たちも、それぞれの自分に閉じ込められたまま、出てくることはないのだ、ということをぼんやり思った。

自意識の芽生え、といったところだろうか。
ある日、病院で注射をされて、とても痛くて、いとこのお兄ちゃんに泣きながら注射された腕を見せたのを覚えている。
こんなに痛いのに、こんなに大好きなお兄ちゃんなのに、この痛みはわかってはもらえない。わたしは泣いてるのに、彼は少しも泣いていなかった。あたりまえだけど。
この痛みをお兄ちゃんは感じられないのだな、ということに気づいて、途方にくれた気分になった。
(注射は今でも大嫌い。インフルの予防注射は大学受験を控えた年だけ、仕方なく受けた。)

昔、よくしていた妄想がある。
ある日、ベッドで目を覚ますと、全く新しい環境に自分がいる。というか、自分も今までの自分ではない。すべてが夢だったのだ。
目をうっすらと開けると、たくさんの大人たちがこちらを覗き込んでいる。当時の憧れもあったのだろう、皆立派な洋服を着ており、お金持ち然としている。天井は高く、部屋のトーンはシックだ。
この妄想をよくしていたのは、自分が自分であることを、すんなりと受け入れられなかったからなのかな、と今では思う。

哲学の授業で、こんなことを習った。
ショーペンハウアーという哲学者は「この世界は、フィクションの物語であり、全てが夢である」と考えていた。
しかし、後世の哲学者たちは、彼の考えに接してこのように考えた。
「現実世界が物語だとして、人間はその登場人物だとしても、人間は決してその物語の外には出られない」
「現実世界が夢だとしても、人間は決してその夢からは醒められない」
「ほかならぬわたしがそこにいる、という現前性を、人間は認識せざるをえない」
ショーペンハウアーの生に対する非実在の考えは、逆に生の切実さと生々しさを浮き彫りにすることになったという。
人間は、自分の人生を映画を観るように、小説を読むように、高見の見物をすることは許されていない。

チャップリンは、「人生は近くから見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」という名言を残しているが、生きている限りはどうも難しそうだ。死ぬ間際には、どの人生も限りなく喜劇に感じるのだろうか。そうだといいな、と思う。

わたしには秘技がひとつある。怒られているときは、幽体離脱をしている気分になること。天井のすみっこから、怒られているわたしと怒っているひとを眺める。
その秘技によって、強制的にわたしはわたしを離れ、その距離感は悲劇を喜劇に写し変えてみせる。そう、気分が大事。