"LGBTを支援する" はもう古い

第42話 大学のなかの性的マイノリティー…広がる理解と活動 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

headlines.yahoo.co.jp

という記事を読んだ。
ざっくりまとめると以下の通り。 
大学においてLGBTサークルの活動が盛んになってきており、またセクシュアルマイノリティの大学教授がそれを表明するようになって、性の多様性が大学内で理解されるようになったが、学生相談室ではまだ関心や支援が不十分だ。
 
わたしが一つ気になったのは、「支援」という言葉だ。支援って、弱者に対して使う言葉だと思う。性的マイノリティは、少数派ではあっても、弱者ではない。
下記の記事でも言及がある。

studio-pikake.hatenablog.com

アドバイスとかいらぬ配慮で弱者扱いしてくる人にも要注意。ああ、私って被害者なんだ、弱者なんだ、って刷り込んでくるので。

  「LGBTだと職場で苦労してるんじゃないの?かわいそうに・・・」←これは私の母の台詞(笑 

→そんなことありません〜♪

「いろいろ、大変ね・・・」

→今、全然大変じゃないです。会社に行っていた時もフルオープンにしてたけど、何も困らなかった。

これが当事者の生の声なのだ。
 
 
冒頭に挙げたヤフーの記事では、学生相談室の態度について、
学生は「別に特別視しませんよ」とクールに言われて安心できるかといえば、「本当に話して大丈夫か」「共感してもらえるのだろうか」という不安のほうが、むしろ強いものです。
 
と書いてある。私は、特別視しないことのほうが健全だと思う。もちろん、相談員にはLGBTについての知識や理解を持っていなければならないと思うけれど、だからといって特別視するのはおかしい。なぜなら、特別視するということは、LGBTのひとたちを「普通ではない」と思っている、ということの裏返しだからだ。
 
彼らは、もちろん異常なんかではない。セクシュアリティの観点から見て少数派なだけで。理解はしてほしいけど、あまりにも特別視されるのも疲れるし、むしろそんなことを求めてない、と彼らは思っているのではないだろうか。
 
同じく(日本の中で)マイノリティである外国人で考えてみよう。日本に長く住んでいる外国人がいたとする。その人はもう日本人と同じような感覚を持ち、もはや自分が外国人であるという認識すら、普段の生活の中では抱いていない。
 
新しく会う日本人会う日本人が外国人だからと言って特別視して、「やっぱり住み慣れないんじゃない?」「日本語って難しくない?」「いつかは母国に戻るの?」などとばかり話すのはいかがなものか。
その外国人はすっかり日本に馴染んでおり、どちらかと言えば流行りのドラマや最近行った美味しい店についてお喋りしたいと思っているかもしれない。外国人ネタには飽き飽きしているのかもしれない。
 
その外国人は、「外国人」である前に「一個人」である。人種という面でマイノリティだからといって、外国人とひとくくりにされ、それっぽい話ばかりされたら、うんざりだろう。特別視というのは、そういうことなのだ。
 
 
わたしの大好きな小説、『GO』(金城一紀)の主人公である杉原は、恋人に自分が在日韓国人だと知られた途端に拒絶されてしまう。そんな恋人、というより自分を<在日>と呼ぶ日本人全てに対してに痛烈な言葉を放つ。
 

 

 
「どうして何の疑問もなく、俺のこと<在日>なんて呼べるんだよ!
 (中略)
 お前ら俺が恐いんだろ!
 名前付けなきゃ不安で仕方がないんだろ!
 なあ !? じゃあ、俺はライオンだよ!
 ライオンは自分のことライオンだなんて思ってないからな!
 お前らが勝手に付けた名前じゃないか!
 調子こいて近づいてみろ、頚動脈に咬みついて、咬み殺してやるぞ!
 名前なんて何だっていいんだよ!
 マムシでも、サソリでも、エイリアンでもいいよ!
 だけど俺は自分のことエイリアンだなんて思ってないからな!
 俺は、在日でもエイリアンでもねえんだよ!
 俺は俺なんだよ!
 いや、俺は俺であることすら捨ててやる!
 クエスチョンだ!ハテナマークだよ!
 物体Xだ!
 どうだ恐いだろう!なあ !?」

 

 

名台詞である。映画版での窪塚洋介のこの台詞は凄みがある。
この作品の窪塚洋介は本当に素晴らしい。危なっかしさとある種の烈しさ、色気を存分に演出している。興味のある方はぜひ見てほしい。ついでに言うと舞台裏の彼のインタビューも作品に負けないくらい素晴らしい。
(※窪塚洋介のファンでなくてもこう感じる)
 
GO [DVD]
 
さて、少し話が脱線したので戻そう。
LGBTの方をを<セクシュアルマイノリティ>と一口にラベリングし、すぐに関連の話題を出したり、「ワタシ理解あるんだよ」と力強く訴えてみたり、「そりゃ大変だよね、支援するよ」などとアクションを起こす必要はないと思う。セクシュアルティどうこう以前に、相手は一人の人間なのだ。(もちろん、相手がセクシュアリティに関する話をしてきたら、応じるべきだとは思うが。)
 
というロンドンにあるマイクロソフトのインターナショナルチームで働く方の、ダイバーシティを考えなおす記事があった。
 
 以下引用。
 
 Amazonの日本語書籍 や、インターネットの日本語サイトを見ていると、ダイバーシティというと、女性の権利がどうこうとか、マイノリティや外国人の受け入れのために云々という言葉が並んでいます。そこに凄く違和感を感じました。
 
 自分が何故、違和感を感じるかを考えてみると、「自分たちはマジョリティだけど、マイノリティを受け入れて、より生産性をあげよう」というノリを感じるからということに気づきました。
 
マジョリティ / マイノリティなど存在しない。
 
日本では「ダメ人間」の烙印のADHDも、文化も、年齢も、国も、考え方も、得意分野もすべて違う人が集まってるのが前提なのでそれが「違う」とすら 認識しません。だから、「君はこうあるべき」「君はこうすべき」などと言われた事がありません。
 (注)ブログの筆者はADHDを持っている方らしい。
 
 
先ほどのヤフーの記事の論調も、「自分たちはマジョリティだけど、マイノリティを受け入れて、より生産性をあげよう」というタイプのものだろう。一見世の中には少数派、多数派があるけれど、それはあくまで単一の側面から測っているにすぎない。
人のアイデンティティを図解すると以下のような感じになると思う。
 
f:id:lolllol:20160429013413j:image
 

アイデンティティにはいろんな構成要素があって、その要素が何であるのか、その割合がどうなっているのかは人によって異なる。上のイラストはあくまで一例。

(わたし自身がこのようなアイデンティティ構成というわけではない。)

 
私たちが、多数派・少数派と人を分けるとき、アイデンティティのうちのたった一つの要素で分ける。たとえば、性や出自(国、民族)など。
しかし、先ほども述べたように、アイデンティティの要素とその構成の割合は人によってバラバラだ。それなのに、たった一要素で乱暴に人を分けて良いのだろうか。
 
ダイバーシティの本質は、マイノリティを擁護することにあるのではなく理想論でも正義論でもなく、事実として一人一人が異なった存在であるということを前提に置くことにある。

ある要素においてマイノリティというだけなのに、すぐに「ハイ支援しましょうね」と思考停止に陥るのは間違いだろう。

 
おそらく、社会におけるLGBTなどのマイノリティの扱われ方は次のようなステップをたどっている。
 

1.そんな人たちって実在するの?

2.異常だ。排斥しろ。
3.人権問題もあるし、理解してあげよう。
4.支援してあげよう。
 
そろそろ次のフェーズに行く時期だと思う。
5.LGBTはその人のアイデンティティを構成する一要素でしかない。
 
では、この曲で締めよう。
Creepy Nuts(R-指定&DJ松永) 、『みんなちがって、みんないい。』
 
 
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