公園とビニール傘と悩み

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平日の昼下がりの公園に行けば、たいてい“可愛い”に出会える。お母さんと一緒に来ているちいさな子供、散歩に来ている犬。

遊具がある公園だと、子供に出会える確率は高い。

今日出会った子供は3才くらいの男の子。青いダウンと白いピカピカのスニーカーがよく似合っていた。

大人と違って、子供はじっと見つめてもいいような気がするから、見つめてしまう。そうすると、子供もこっちを見てくれる。

お互い、ニヤニヤする。大人相手だったらこんなの変態だと思われるけど、子供だったら、大丈夫。

男の子は、揺れる遊具(またがるやつ)の周りをうろちょろしたり、遊具の方に向かって感慨深そうに「ああああああ」と叫びながら走って行ったり、

少し離れたところにいるお母さんを「ま、まーーー」と呼んだりなどしている。

 
犬は、飼い主と一緒にベンチに座っていた。なんだろう、同期が飼っている犬と同じ犬。なんやっけ。トイプードルか。

茶色くて、くるくるのモワモワの毛を持つ犬。彼が好きな犬は、なんて言うんだっけ。忘れた。とにかくその犬が可愛いという。偏愛というやつだ。

江ノ島に行く電車をホームで待っているときに、画像検索をして調べたけど、別に可愛くもなんともない。普通の犬。コーギーだ。

お尻が可愛い、と彼は言う。前飼っていたから、可愛く見えるんだろう。彼は、自分と強い関わりを持った、と感じるものを理由なく、強く愛していられるんだと思う。

こないだも、私のことを可愛い、って言ったときに私は、「じゃあ、私より可愛い子があらわれて、その人に好かれちゃったらどうする?」っと聞いたら、

「いや、それは順番だし」と言っていた。順番。

そこを順番と考えるのは、律儀と表現するべきなのだろうか。

 

彼の好きなコンビニはファミリーマートだ。ファミリーマートには、好きなものがたくさん揃っている、と言う。

「俺、ファミマしか目に入ってないのかもしれない」と昨晩はファミマへの重すぎる告白をしていた。

最近のお気に入りは、大きな袋に入った厚切りのポテトチップスだ。チキンとたまねぎのコンソメ味、など、料理か、と思うような

凝った味が多い。確かに美味しい。昨晩は、一緒にお風呂に入ろうということになって、さあ行こうというときに、

私がポテチを見つけてボリボリ食べていたら、「いくよ、食いしん坊」と言われた。食いしん坊で、ごめん。

  

公園、ただおだやかな時間が流れる。岸さんの「ビニール傘」を読む。

岸さんの「断片的なもの」への眼差しや描写を小説で読むことができる。あまりにもありふれた風景の描写や感情だから、自分の中のそれを呼び起こして、感傷的になってしまう。

たとえば、数秒前まで一緒にいた人と別れて一人になったときのあっけなさとか、お互い一緒にいたいのに、一緒にいても「何も面白いことはない」こととか。

「ビニール傘」は大阪を舞台にしている。

大阪に帰りたい、と思う。おじいちゃんとおばあちゃんに会いたい、とも思う。

おじいちゃんとおばあちゃんは日本には、いないのだけれど。

おばあちゃんから着信があったから、折り返したら、出てくれなかった。おばあちゃんはいつもそうだ。

かけて、折り返し、かけて、折り返し。お互いが出られるタイミングが、なかなかない。そうやってすれ違っていううちに、おばあちゃんがいなくなってしまうのが、とても怖い。

おじいちゃんにもかけてみたけれど、やっぱり出なかった。

おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行かなければ、と思う。いまのうちに会っておかなければ、と思うけれど、お金もないし時間もない。貧乏ひまなし。辛い。いや、実際時間はあるのだけれど。

会社員なので、どうしても厳しい。転職活動をしなきゃ、と思うものの、自分は何がしたいのかいよいよわからなくなってきている。どうしよう、どうしようと思っているうちにダラダラといまの会社に居続けるのも、怖い。

 

大阪に帰りたいけれど、彼と離れるのはとても考えられない。

彼は、あと2年で就職になる。どこに就職するの?と聞いたら、町田に勤務先がある会社がいい、と言う。

なんで?と聞くと、そこは転勤がないから、と言う。彼の地元は、福岡なので、福岡に帰らないの?と聞くと福岡は多分探しているような仕事もないし、私が居ない、と言う。

「ずっと東京にいるか、わからないけど」

「え、東京にいたいんじゃないの?」

「うん」

「じゃあ、どこでもいいけど。着いてきてくれるなら。あ、もしフランスでも、ついてきてくれる?」

フランスはどうだろう。

 

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何をしたいのかわからない。働くというのは自分の能力や時間を差し出すわけだから、

自分が社会になにを提供していきたいのか、考えるべきだと思う。

一方でも自分がどう生きていきたいのかも、考えるべきだと思う。

その二つのバランスを考えて、仕事を選んでいかなければばならない。

ツイッターでは、やりたいことよりも、やりたくないことをしなくて済むような仕事がいい、と言っている人がいた。

確かにそちらの方が、精神衛生上いいと思う。

ただ、やりたいことってやりたくない部分もあると思う。

文章を書くのが好きだけど、仕事だととりたてて興味もない内容に関する文章を書かされるかもしれないし、

何かを考えるのが好き、だと言ってもクライアントに延々とNOと言われてそれでも考えなくちゃいけなかったする。難しいもんだ。

(そうは言っても、これまで仕事で何回か文章を書いたけれど、それなりに達成感と満足感があってよかった)

負荷があるからやりがいがある、っていうこともあるし。

 

営業はやりたくないなって、思う。新卒1年目なので、去年4月から電話対応をしてきた。営業の電話が度々かかってくるが、弊社ではとりあえず「担当者は外出中です」と言って断ることになっている。

そうやって営業担当者は断られてばかりいて、それでいてノルマはあって、プレッシャーに追われていることが想像できる。

 

自分ができることなんて、本当に限られている。

専門技術があるわけでもなし、たいした資格があるわけでもなし。めちゃくちゃ得意なことがあるわけでもなし。

ちょっといい大学を出たからって、得意げになっていたけれど、内定も全然とれなかったし、

エントリーシートWEBテストが通りやすいだけだった。結局、最終まで通らないと意味がないから、無駄に期待して無駄に傷つくだけだった。就活が苦手なのかな。

昨日、NHKの就活応援TVなるものがあった。そこでは、企業が求めているものは、主に自社への情熱と人柄、そしてコミュニケーション能力ということだった。

情熱というものが足りないのかもしれない、と思った。絶対どこかの業界に入りたい、とかどこの会社がいい、とかはない。

ちゃんと残業代と賞与がもらえて、社内の雰囲気が良くて、残業がすごく多いわけではなかったら、それでいい。

そんな状態で、どうやって情熱を見出すのだろうか。

 

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 <追記>

「何をしたいか わからない」で検索したら、知恵袋のページを見つけた。

このベストアンサーの言葉に救われた。菩薩様かな。

自分がどうしたいのかがわからないんです。24歳女性、社会人3年目です。昔から何... - Yahoo!知恵袋

 

まず初めに言いたいのは、あなたが今いる場所を、あなたが努力してきたから得られたその場所を、他でもないあなたが否定すべきではない、ということです。
不満に思うのはいいんです。不安に駆られるのはいいんです。
でも、今いる場所を否定することは決してしてはなりません。それをするということは過去の自分を否定することで、過去を否定するということは、これから先どこへも行けないということだからです。  

その想いは抗うほどか?

「何年も前、白人の女性とつき合っていた時に、彼女の両親に会いに行ったことがあった。ものすごく、怖かった。かすかなことであれ不快なことを誰かに言われる、あるいは何らかの形で、招かれざる感じを覚えるんじゃないかと。そうした恐怖がその通りになったということはなくて、その家族を責めるわけでもないけれど、実際、私は怖かった。それが今作のプロットとなった」

「私はオバマ支持。だから人種差別しない」の欺瞞を突く~『ゲット・アウト』 -- 朝日新聞GLOBE より引用

 

何があっても反抗する気力、エネルギーはあるのか。

エネルギーを使い果たしても、もぎ取ろうと思えるのか。

 

そこを越えられないのなら、それはもう恋ではない。

もちろん、愛でもない。

 

相手の属性が好きなのか、

その属性がなくなっても好きなのか。

 

『GO』(金城一紀 著)はそれを浮き上がらせる。

主人公が恋人に<在日>だと伝えて拒絶されたとき、

主人公が絶望の淵に落ちたのは、

彼女に偏見があったことよりも(もちろんそのことのショックだったと思うが)

彼女の自分への想いが、その偏見にあっけなく負けてしまうことを知ったからだ。

 

結局のところ、ロミオとジュリエットに出てくるこのセリフが

恋や愛の本質を一番深くついている。

 

What's in a name? 

That which we call a rose. 

By any other name would smell as sweet. 

 

名前って何?

バラと呼んでいる花を、

他のどんな名前で呼んでも、その匂いは甘いまま。

 

「バラ」という名前だから好きなのか?

「バラ」ではなくても好きなままなのか?

 

『GO』の冒頭に、

「これは僕の恋愛に関する物語だ」という断りがある意味がようやくわかった気がする。

 

<追記>

家に帰って(ひまだったので業務中にこの記事を書いていた)『GO』を開くと、なんとこのページがあった。驚いて、声が出た。

 

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完全に忘れていた。というより、読み飛ばしていた。初めて読んだときから6年経って、わたしはやっとこの物語を自分のものにした。 理解ではなくて、実感となった。

ナラタージュ 

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「もういいやって思えてきてん」

一度も好きな人ができたことがなかった友人は、社会人になり、好きな人ができたらしい。職場の先輩だという。月に一度くらい彼女と会うのだが、その度に進捗を報告してくれる。

冒頭は、おとといの彼女の言葉。

「もう脈なしかもしれん。ラインを送っても一日中その返事を気にしてしまうのが疲れるねん」

わかるわかる、と私は相槌を打った。好きな人からの返事を待つのは、この上なくそわそわしてしまい、いつiPhoneの画面が光るのか、つい視界の端でもチラチラと確認してしまう。そして、そのうち待ちくたびれると、光っていないのに光っているかのような錯覚すら起こしてしまうこともあり、そんな自分にまた嫌気が差すのだった。

 

あまり手応えもないのに、好きな人にアプローチをするのは、本当に疲れるしじわじわと失恋をしているような気持ちになる。自分にも同じような経験があったことを伝えた。自分だけ暴走しているのが気持ち悪いし、恋い焦がれることに単純に疲れる。

「そんな経験あるんや、みんなおんなじなんやな」

と彼女の表情は少しだけゆるんだ。

「でもさ、好きな人ができるだけでいいと思うよ」と言うと、彼女は仏頂面でこう返した。

「いいことなんかない。しんどい」

「それはそうやけど。んー、“いい”っていうか、価値があるとは思う。

 だってさ、そこまで好きな人に出会えるっていうこと自体があんまりないことやん?」

「確かに」

初めての恋をしている彼女は力強く頷いた。

「うん。今片思いの辛さを忘れかけてるから、綺麗事を言ってしまってるかもしれんけどさ」

と付け加えておいた。

 

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映画『ナラタージュ』を観た。

(ネタバレが嫌な人は読まない方がいいかもしれないです)

改めて、「恋する」ことのハードルの高さを実感した。

奈良時代では、「恋ひ」は受け身だったという。相手を求めるのではなく、相手に惹かれる。身も心も焦がれてしまうもの、それが恋だった。

たとえ、相手が精神的な支柱であり、人間として魅力があると感じていても、さらにはその相手と身体的な関係も持っていても、その人に恋するとは限らないのだ。

 

泉が葉山先生を好きになるのは必然に思えた。

恋愛もので、一番腹が立つのは好きになるきっかけが全くわからないまま、いつの間にか最初は憎たらしかった人を好きになっているというものだ。

人を好きになるのは、人間関係におけるバグみたいなのだ、というフレーズをどこかで聞いたことがあるけれど、そうは言っても物語の中では好きになるまでの描写をしていく必要があると思う。

話を戻すが、ナラタージュでは、泉の葉山先生に対する思いには必然性があった。自分が泉でも、葉山先生を好きになるだろうな、と納得できる。

一方で、葉山先生から泉への思いは、彼自身の口からも語られていたように、「恋じゃなかったと思う」。泉の存在と、泉から頼られること、向けられる感情は、葉山先生にとって生きていく上で必要だった。必要だったけれども、泉に恋はしなかった。

ではなぜ、卒業式のときにキスをしたのか? 

 

性行為に繋がるキスとそうではないキスとでは、全く重みが違うと思う。後者は、相手を想う気持ちがなければ生まれないものだ。

あんなふうにキスをされたら、自分のことを想ってくれていると感じても仕方がない。だから、いろんな人が論じているように葉山先生はずるいのだ。

泉が風邪のときに看病してくれる葉山先生に「なんでそんなに優しくするんですか、なんなんですか」という泉の台詞に全ての女性が共感したのではないだろうか。

ただ葉山先生にとっては泉は恋愛としての意味抜きで大事な存在だったのだろう。

 

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ナラタージュ』において、雨は重要な表現だ。

昔、恋人と一度だけ旅行に行ったことがある。湖のほとりの街だ。大雨が降っていて、狭い通りをスーツケースを引いて私たちは縦に並んで歩いた。前を歩く華奢な彼の身体と大きな黒い傘が不釣り合いだったことを覚えている。

その土地にゆかりのある人物の旧邸にわたしたちは行った。他に誰もいなかった。

「こんだけの雨のときによう来たね」と係の方が声をかけてくださった。

「京都から来ました」

彼の午前中だけの授業を待って、私たちは京都駅で待ち合わせをしたのだった。

縁側から、遠くまで眺めることができた。緑をたたえた山々に、雨が降り注いでいた。

 

七夕だったから、二人で短冊を書いた。彼は「もう一年」と書いた。

それは、一年記念の旅行だった。見た途端、私は危うく涙ぐんでしまうところだったけれど、なんとか微笑んでみせた。

 

それから三ヶ月ほど経って、わたしたちは別れることになった。

「もう一年」は叶わなかった。

 

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もうちゃんと人を好きになれる気がしない、と私は思ったけれど、

そのあとに一人片思いをした。その人は、とても色気がある人で、これまで出会ったことがないタイプの男だった。

あれは、たしかに恋だった。

冒頭の、「自分だけが暴走してしまうのが辛い」というのがこの彼だった。寝ても覚めても彼のことを思ってしまう時期があった。

誘って、二人で会った。彼は、まったくわたしを女性として意識していないと思った。諦めようと思った。虚しかった。

 

しかし、半年後くらいに彼から誘ってきたことがあった。私は舞い上がり、普段買わないようなワンピースを買い、彼と待ち合わせをした。普段は被らない帽子を被って、彼は現れた。道がわからないかもしれないから、迎えに行きますよ、と言ってくれた。

好きだった。彼が自分にする行動の一つひとつが気がかりだった。どういう気持ちで話しかけて、または誘ってくれているのか。

卒業する前に、気持ちを打ち明けた手紙を何回も書いて、何回も破った。

 

そしてついには気持ちを打ち明けることもできず、終わってしまった。最後に別れのあいさつをするために、会う約束をとりつけたのにも関わらず、運悪く会うことができなかった。春の冷える日、寒々と流れる鴨川を眺めて、久しぶりの失恋を味わった。

 

あのとき誘ってくれなかったら、私は静かに静かにこの思いを閉じられたのに。

 

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もうちゃんと人を好きになれる気がしない。

私はもう一度思う。

そうやって思うほどに、彼らをちゃんと好きだったことを、

少しは誇りに思ってもいいのかもしれない。