その想いは抗うほどか?

「何年も前、白人の女性とつき合っていた時に、彼女の両親に会いに行ったことがあった。ものすごく、怖かった。かすかなことであれ不快なことを誰かに言われる、あるいは何らかの形で、招かれざる感じを覚えるんじゃないかと。そうした恐怖がその通りになったということはなくて、その家族を責めるわけでもないけれど、実際、私は怖かった。それが今作のプロットとなった」

「私はオバマ支持。だから人種差別しない」の欺瞞を突く~『ゲット・アウト』 -- 朝日新聞GLOBE より引用

 

何があっても反抗する気力、エネルギーはあるのか。

エネルギーを使い果たしても、もぎ取ろうと思えるのか。

 

そこを越えられないのなら、それはもう恋ではない。

もちろん、愛でもない。

 

相手の属性が好きなのか、

その属性がなくなっても好きなのか。

 

『GO』(金城一紀 著)はそれを浮き上がらせる。

主人公が恋人に<在日>だと伝えて拒絶されたとき、

主人公が絶望の淵に落ちたのは、

彼女に偏見があったことよりも(もちろんそのことのショックだったと思うが)

彼女の自分への想いが、その偏見にあっけなく負けてしまうことを知ったからだ。

 

結局のところ、ロミオとジュリエットに出てくるこのセリフが

恋や愛の本質を一番深くついている。

 

What's in a name? 

That which we call a rose. 

By any other name would smell as sweet. 

 

名前って何?

バラと呼んでいる花を、

他のどんな名前で呼んでも、その匂いは甘いまま。

 

「バラ」という名前だから好きなのか?

「バラ」ではなくても好きなままなのか?

 

『GO』の冒頭に、

「これは僕の恋愛に関する物語だ」という断りがある意味がようやくわかった気がする。

 

<追記>

家に帰って(ひまだったので業務中にこの記事を書いていた)『GO』を開くと、なんとこのページがあった。驚いて、声が出た。

 

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完全に忘れていた。というより、読み飛ばしていた。初めて読んだときから6年経って、わたしはやっとこの物語を自分のものにした。 理解ではなくて、実感となった。

ナラタージュ 

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「もういいやって思えてきてん」

一度も好きな人ができたことがなかった友人は、社会人になり、好きな人ができたらしい。職場の先輩だという。月に一度くらい彼女と会うのだが、その度に進捗を報告してくれる。

冒頭は、おとといの彼女の言葉。

「もう脈なしかもしれん。ラインを送っても一日中その返事を気にしてしまうのが疲れるねん」

わかるわかる、と私は相槌を打った。好きな人からの返事を待つのは、この上なくそわそわしてしまい、いつiPhoneの画面が光るのか、つい視界の端でもチラチラと確認してしまう。そして、そのうち待ちくたびれると、光っていないのに光っているかのような錯覚すら起こしてしまうこともあり、そんな自分にまた嫌気が差すのだった。

 

あまり手応えもないのに、好きな人にアプローチをするのは、本当に疲れるしじわじわと失恋をしているような気持ちになる。自分にも同じような経験があったことを伝えた。自分だけ暴走しているのが気持ち悪いし、恋い焦がれることに単純に疲れる。

「そんな経験あるんや、みんなおんなじなんやな」

と彼女の表情は少しだけゆるんだ。

「でもさ、好きな人ができるだけでいいと思うよ」と言うと、彼女は仏頂面でこう返した。

「いいことなんかない。しんどい」

「それはそうやけど。んー、“いい”っていうか、価値があるとは思う。

 だってさ、そこまで好きな人に出会えるっていうこと自体があんまりないことやん?」

「確かに」

初めての恋をしている彼女は力強く頷いた。

「うん。今片思いの辛さを忘れかけてるから、綺麗事を言ってしまってるかもしれんけどさ」

と付け加えておいた。

 

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映画『ナラタージュ』を観た。

(ネタバレが嫌な人は読まない方がいいかもしれないです)

改めて、「恋する」ことのハードルの高さを実感した。

奈良時代では、「恋ひ」は受け身だったという。相手を求めるのではなく、相手に惹かれる。身も心も焦がれてしまうもの、それが恋だった。

たとえ、相手が精神的な支柱であり、人間として魅力があると感じていても、さらにはその相手と身体的な関係も持っていても、その人に恋するとは限らないのだ。

 

泉が葉山先生を好きになるのは必然に思えた。

恋愛もので、一番腹が立つのは好きになるきっかけが全くわからないまま、いつの間にか最初は憎たらしかった人を好きになっているというものだ。

人を好きになるのは、人間関係におけるバグみたいなのだ、というフレーズをどこかで聞いたことがあるけれど、そうは言っても物語の中では好きになるまでの描写をしていく必要があると思う。

話を戻すが、ナラタージュでは、泉の葉山先生に対する思いには必然性があった。自分が泉でも、葉山先生を好きになるだろうな、と納得できる。

一方で、葉山先生から泉への思いは、彼自身の口からも語られていたように、「恋じゃなかったと思う」。泉の存在と、泉から頼られること、向けられる感情は、葉山先生にとって生きていく上で必要だった。必要だったけれども、泉に恋はしなかった。

ではなぜ、卒業式のときにキスをしたのか? 

 

性行為に繋がるキスとそうではないキスとでは、全く重みが違うと思う。後者は、相手を想う気持ちがなければ生まれないものだ。

あんなふうにキスをされたら、自分のことを想ってくれていると感じても仕方がない。だから、いろんな人が論じているように葉山先生はずるいのだ。

泉が風邪のときに看病してくれる葉山先生に「なんでそんなに優しくするんですか、なんなんですか」という泉の台詞に全ての女性が共感したのではないだろうか。

ただ葉山先生にとっては泉は恋愛としての意味抜きで大事な存在だったのだろう。

 

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ナラタージュ』において、雨は重要な表現だ。

昔、恋人と一度だけ旅行に行ったことがある。湖のほとりの街だ。大雨が降っていて、狭い通りをスーツケースを引いて私たちは縦に並んで歩いた。前を歩く華奢な彼の身体と大きな黒い傘が不釣り合いだったことを覚えている。

その土地にゆかりのある人物の旧邸にわたしたちは行った。他に誰もいなかった。

「こんだけの雨のときによう来たね」と係の方が声をかけてくださった。

「京都から来ました」

彼の午前中だけの授業を待って、私たちは京都駅で待ち合わせをしたのだった。

縁側から、遠くまで眺めることができた。緑をたたえた山々に、雨が降り注いでいた。

 

七夕だったから、二人で短冊を書いた。彼は「もう一年」と書いた。

それは、一年記念の旅行だった。見た途端、私は危うく涙ぐんでしまうところだったけれど、なんとか微笑んでみせた。

 

それから三ヶ月ほど経って、わたしたちは別れることになった。

「もう一年」は叶わなかった。

 

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もうちゃんと人を好きになれる気がしない、と私は思ったけれど、

そのあとに一人片思いをした。その人は、とても色気がある人で、これまで出会ったことがないタイプの男だった。

あれは、たしかに恋だった。

冒頭の、「自分だけが暴走してしまうのが辛い」というのがこの彼だった。寝ても覚めても彼のことを思ってしまう時期があった。

誘って、二人で会った。彼は、まったくわたしを女性として意識していないと思った。諦めようと思った。虚しかった。

 

しかし、半年後くらいに彼から誘ってきたことがあった。私は舞い上がり、普段買わないようなワンピースを買い、彼と待ち合わせをした。普段は被らない帽子を被って、彼は現れた。道がわからないかもしれないから、迎えに行きますよ、と言ってくれた。

好きだった。彼が自分にする行動の一つひとつが気がかりだった。どういう気持ちで話しかけて、または誘ってくれているのか。

卒業する前に、気持ちを打ち明けた手紙を何回も書いて、何回も破った。

 

そしてついには気持ちを打ち明けることもできず、終わってしまった。最後に別れのあいさつをするために、会う約束をとりつけたのにも関わらず、運悪く会うことができなかった。春の冷える日、寒々と流れる鴨川を眺めて、久しぶりの失恋を味わった。

 

あのとき誘ってくれなかったら、私は静かに静かにこの思いを閉じられたのに。

 

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もうちゃんと人を好きになれる気がしない。

私はもう一度思う。

そうやって思うほどに、彼らをちゃんと好きだったことを、

少しは誇りに思ってもいいのかもしれない。

銀座が歩行者天国になっていることには意味がある

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 友人と銀座に行った。友人にとっては、初めての銀座だった。歩行者天国になっていて、歩いていて気持ちがよかった。

 銀座が歩行者天国になっていることには意味があると思う。銀座は銀座であるがゆえに、人口密度のやたら高い渋谷のような街ではいけない。

 

 広い道路、広い川、客席と客席の間が広いレストラン。どれも、安心する。大学に通っていた頃、通学電車の車窓から見える幅の広い川を見逃すまいと、時折りちらちらと窓の外を見るようにしていた。広い川を見ると、それだけで気持ちが落ち着いた。大学生の頃は、はっきりとした悩みがなくても、いつもふわふわと落ち着かないような精神状態だった(この話はまたの機会に)。

 

 人と人の距離が近いと、どうも気になる。カフェやレストランで席の近いテーブルの会話が聞こえると、調子が狂う。聞こえているのに聞こえないふりをしないといけないし、他の人たちがおしゃべりしている中で自分たちが黙っていると、なんだか盛り上がっていないような気がしてしまって、気まずいような感じがする。

 

 そういえば、伊坂幸太郎の『グラスホッパー』という小説で、バッタの話が出てくる。バッタは、密集して育つと群集相というタイプになって、色は黒くなり、翅は長くなり、そして凶暴になる。どんな動物も、密集して暮らすとどこかおかしくなる、といった内容だ。

 ある登場人物は「これだけ個体と個体が接近して、生活するのは珍しいね。人間というのは、哺乳類じゃなくて、むしろ虫に近いんだよ」と言う。

 

 都会に住んでいると、否が応でも人と人との距離感が近くなり、パーソナルスペースを十分に確保できていないせいで、無意識のうちにストレスが溜まってしまい、それゆえ人に優しくできなくなる、といった話も、どこかで聞いたような気がする。

 

 都会と人の優しさの言説に関しては、いろいろと条件が複雑に絡んでいるので真偽を判定しにくいだろう。わたし個人(今年の春に大阪から上京してきた)の所感としては東京の人はやっぱり少し無愛想で、少し冷たいような気がした。それは、東京だからなのか、関東全体の話なのか、 はわからないし、別に大阪だって都会だから比較対象としても適切でないかもしれないけれど。

 ある日、服屋さんでジャケットを見ていたときのこと。色と生地の質感が気に入って、試着させてもらった。ただ、鏡で見ると少し肩幅が大きいような気がしていたので、しばし迷っていた。

「すみません、またあとで来て考えます」とわたしは店員に告げると、店員はこう言った。

「〇〇円でも買わないんだったら、やめた方がいいですよ」

その服は、定価から大きく値下がりしていたのだ。でも、わたしが気になっていたのは、別に値段の話ではない。イラっとした。追い討ちをかけるように、彼女はこう言葉を続けた。

「あなたが買わなくても、他の誰かが買ってくれますから」

さすがにカチンと来た。

「これから用事があるので、あとで来てゆっくり悩みたいんですよ」と言った。

するとどうだろうか、彼女は

「いやいや、無理しなくていいですよ」と半笑いでこちらも見ずにわたしが脱いだジャケットをハンガーにかけ、ラックに戻していた。

 こんなことってあるのだろうか。あなたは一体服を売る気があるのだろうか。お客様を神様とは言わないまでも、せめて気持ちよくコミュニケーションしようと思わないのだろうか。東京に来て間もないわたしは、この出来事に打ちのめされた。買い物をしていて、こんなに不快な思いをするのは初めてだった。

 まあ、このようなことがレアケースであることは十分に理解している。それでも、このように人の冷たさに打ちのめされるようなことは、ちょくちょくあった。

 東京って、やっぱりまだちょっと怖い。

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 銀座には、「ちゃんと」した装いのひとたちが他の街に比べて多かった。わかりやすく、ちゃんとしている。Aラインのしっかりした生地のワンピース、ブランドのロゴが入ったハンドバッグ、シルクの綺麗な色のスカーフ、つやつやとした優美な曲線のハイヒール。

 なんだか、こちらが恥ずかしくなってしまうほど、正統派の「ちゃんと」している。その包み隠さない「ハイソサエティ」の記号性にどぎまぎしてしまう。

 

 ……いや、なんでもかんでも「記号性」を持ち出すのはよくない。幾人もの「ちゃんとした」格好の人々とすれ違いながら、わたしはいつもの思考パターンを遮ろうと試みる。

 この人たちは単純にこういう格好が好きで自分に合っているから着ているのかもしれないし、行く先が銀座でなければ、全く違う装いをしているのかもしれない。銀座にふさわしい格好をしているというだけなのかも。ドレスコードだ。

 わたしだって、パーティーに行くときには着飾る。とすると、銀座に行くことはある種のパーティーなのかもしれない。あ、銀ブラ

銀ブラとは)銀座を特別な目的なしに、銀座という街の雰囲気を享楽するために散歩することを「銀ブラ」というようになったのは大正四年頃からで虎の門の「虎狩り」などと一緒に、都会生活に対して、特別警技な才能を持っている慶應義塾の学生たちから生れてきた言葉だ。

時代の中のパウリスタ|カフェーパウリスタとは|銀座カフェーパウリスタ より

  わたしたちだって、銀座に目的があったわけではない。友人は、「あのよくテレビによく出てくる銀座」を一目見たいだけだった。 特に何も買わず、何も食べず、文字通り私たちは銀座をぶらついて、帰路についたのだった。(せめて何か食べればよかったのかもしれない)

「この広い道路を歩くだけでも気持ちいいな」

「うん」

「帰るか」

「帰ろ」 

 しばらく、銀座には行かないだろう。